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よし子ごろく

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1.地獄を見たら強くなれる。

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人間遊んでおってはメシは食えん。泣いても笑っても一日はいっ
  しょや。なんとかしよう思うたら、なんとかなる。いっぺん地獄を
  見たら、もう恐いことなんかない。他人にもやさしくなれるのや。

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 いっつえん
『一膳にしとけよ』

 大阪の北のはずれに池田という小さな町がある。その昔、
摂津へ至る宿場町として栄えた町も、大都市の近代化とともに
昔の賑わいは遠のいてしまった。
 昭和の初め、この池田の町の場末の一画に正弁丹吾という
名の一ぱい飲み屋が誕生した。その名の通り、店の横の公衆
便所からおしっこの匂いが漂ってきて、「ほんまにここは小便
たんご(つぼ)やな」
「そやそや。小便したついでにいっぱい飲んでってんか」
が口癖だった主人は、終戦後まもなく(昭和二十三年)池田駅
前の一等地に店を構えて、持ち前の才覚と押しの強さで池田
有数の寿し屋にのし上がっていった。その主人が押しの一点
張りで私の母を後添に迎えたとき、一歳の私は義父となった
見知らぬ大男を見て声を
上げて泣いたそうだ。その日以来、母は正弁丹吾の人となり、
私が生まれてすぐに家出した父の顔も知らぬまま、私は
五月山の麓の小さな借家で祖母に育てられた。
祖母と私の生活費といえば、母が月に一度渡してくれる五千円
がすべてだった。その五千円も、義父は無益に恵んでやる
つもりは毛頭なく、私が小学四年になると、
「お前も明日から店を手伝え。人間はな、遊んでおってはメシは
食えんのやで」と言って、九歳の私を店の使用人に加えた。
土曜の午後と日曜日の週二日(祭日や春休み、夏休み、冬休み
は毎日)の手伝いだったが、いったん店の中に入ると、子供だ
からという手加減はいっさい抜きに扱われた。(少なくとも私に
はそう感じられた)お皿を割ると、恐ろしい怒声と同時に飛んで
くる義父の拳骨は、脳天にしみこむ痛さだ。中には「負けんなよ」
と耳もとでささやいてくれる板前もいたが、それが義父の目に
止まろうものなら、板前も思いきり高下駄で蹴られたであろう。
食事のときは、座って食べることを許さず、義父は小さな声で
いつも私に言った。
「一膳にしとけよ」で、私は絶対におかわりをしなかった。私の
負けじ魂はこんな中で培われていったのだと思うが、空腹を
かかえながら祖母にみせる空元気を作って帰るときの空しさは、
今も忘れられない。

『骨身にしみた貧乏のつらさ』

祖母がわずかな生活費をどんなにやりくってみても、毎日食べ
ていくだけが精一杯で、お正月のおもちも買えなかった。みんな
が着ていた流行のサックドレスなど、もちろん買ってもらえなかっ
たけれど、貧困の真の辛さはそんなことではない。
 母が義父の暴力に耐えかねて、店から逃げ帰ってくる。そんな
ときの母は、いつもきまって髪を乱し、両目がつぶれて、怪談
映画のお岩さんのような形相になっていた。私は恐怖でいっぱい
になり、目をつぶって母の体にしがみついた。恐怖の震えは
いつまでもとまらなかった。
月に一度はくり返されるこんな一幕の悲劇にも、私はしだいに
慣れていったが、ある晩のこと、となりの部屋で寝ていた私は、
襖の透間から漏れてくる電気の灯りで目が覚めた。母と祖母が
まだ起きて話しこんでいるらしく、二人のやりとりが襖越しに
聞こえてきた。
「もうあの人とはいっしょにやっていけまへん・・・・・・別れよう
かな・・・・・・思てます」
「別れて、どうやってわてら三人暮らしを立てていきますのや?」
「おばあちゃん、二人やったら何とかやっていけますが、
三人は・・・・・・無理やわ・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・おばあちゃん、猪名川に中橋がおますな。あそこから
飛びこんだら・・・・・・じきに死ねますなぁ・・・・・・」
「そうやなぁ・・・・・・」
 長い沈黙。私は体を固くして、まんじりともしなかった。二人の
溜息や、息づかいまではっきりと聞こえた。母が涙まじりの声で、
「そんなこと、できまへんわなぁ・・・・・・」
 と呟くように言うと、いきなりわっと泣きだして、あとは二人の
泣き声がしばらく続いた。
 子供ごころに受けたこの晩の母の言葉の衝撃は、私の中に
消えることのないしこりを残した。人気のない中橋にひとりぼん
やり突っ立っている祖母の姿や、猪名川に浮かんだ土左衛門
の祖母が夢に出てきて、悪夢の情景が消えたあとも、悲しさや
辛い気持ちは現実のものとなって心に残った。
 お母ちゃん、何であんな恐ろしいこと言うたんやろ。何で生き
ていかれへんのやろ。――それはみんな貧乏のせいや。お金が
ないせいなんや・・・・・・そんなことは子供の私にも理解できたし、
母を責める気持ちは、歳月とともに母への同情に変わっていっ
たが、あの夜の長さはいつまでたっても変わることなく、私の心
の底にわだかまり続けた。
私が高校一年の夏、母が義父と別居して、ひと月あまり正弁丹吾
に帰らなかったことがある。このときの母の固い決意も、義父の
急病によって脆くも崩れてしまったが、あのひと月は母が何が何
でも生きていくために、自立に向けて我が身をやつした時期で
あった。母が始めたのは鏡や窓硝子に金箔を貼りつける仕事で、
それも母の境遇を知る人の好意でやっとありつけたのだろう。
あれは私が山口国体(ハンドボール)の初戦に負けて、肩を落と
して帰ったときだ。綾羽通りのある刃物店で、母が入口の硝子戸
に金箔の文字を貼りつけている姿が目に入った。私は一瞬立ち
止まり、その先を進むことができなくなった。涙があふれてきて、
母に声をかけることができない。母だって自分のこんな姿を娘の
私に見られたくないだろう。そんな母子の境遇のわびしさが私を
打ちのめした。もう周囲の誰も見えなくなり、私は母と一体に
なって、母の首筋を流れる汗が私を濡らし、母の全身に浴びた
西陽の暑さが私を焼き、母の渇きが私の喉をからからにするの
を感じていた。私は始めて見るこんな哀れな母の姿を眺め続け
た。――骨身にしみたあの辛さを知らなかったら、今の私はな
かったに違いない。つまり、私は何がなんでも母のようになって
はならない。どんな境遇になろうとも、それによって生きられる
仕事を持ち続けなければならない。私の中に芽生えた自立心が、
やがて根を張り、大きく成長していけたその原点である。
2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より

                             平川 好子

                                 (2003年10月1日記)


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2.どんなもんでも商売にならんもんはない

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  『ほんまの商いは、ひもじさを知ることからはじまるのや。ひもじ
  さの辛さを知ったら、どんな辛抱もできる。「商いは頭でするの
  やないぞ。命がけの辛抱や」と鬼の義父から仕込まれたんや』

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『新もん食いの本領』


肝臓を煩って義父が死んだのは、私が高校二年の春であった。
商売の鬼に徹して、従業員や家族からも懼れられていた義父は、
自ら人一倍の労働を生涯貫き通した。常に斬新なものを追い求
め、持ち前の思い切りのよさで次々に新もん食いの本領を発揮し
た。敗戦後の食料難に喘いでいた当時、ほとんどの店が芋茎など
を入れて巻き寿しを作っていたのに対し、義父は高野豆腐や干瓢を
入れて、正弁丹吾ならではの寿しを提供した。
 そしてまもなく、店に大きな水槽を入れて魚を泳がせ、客の目の
前で生きた魚をさばいて見せた。店内の意匠にも贅を凝らし、各小
部屋の腰に歌麿呂の錦絵、出窓の小障子には浄瑠璃絵を飾るなど
して客の目を魅いた。各コーナーの天井はそれぞれ異なる材質の
見事な作りで、お客ばかりか、若い大工があちこちから見にきた
そうである。
 また、普及し始めたばかりのテレビを真っ先に購入して、プロレス
中継などテレビ目あてにきた客を一手にとらえてなじみ客にして
しまう。こんな抜け目のなさにおいても、日頃から「どんなもんでも
商売にならんもんはない」と言っていた義父の言葉が実地に生か
された一例である。
 反面、義父を商売の鬼にした熱い血が、道楽に向かったのは
言うまでもなく、この道にかけても義父は徹底していた。粋がり屋の
連中を集めて、やくざでもないのに『極道会』なるものを作り、その
先頭に立ってハーレー(バイク)を乗り回した。、義父の女道楽は
有名であり、『ほうきの正弁丹吾』と呼ばれた。目に止まったら、何
でもかんでもひっかけてくるという意味らしい。こんな途方もない道楽
も、義父の死を早めた要因のひとつになったのは間違いない。太く、
短い人生を全速力で走り終えたとき、義父はまだ六十前だった。
2001年の著書『ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―』講談社刊、の一節より


思いおこせば義父の死後、昭和45年に自社ビルを新築するまでの、
年月の流れの早さは今から考えても驚くばかり!!
あれから30年以上の月日がたった今日、当時の片腕だった富士
ちゃんの長女の寿子ちゃんと三女の舞子ちゃんと先日、兵庫県の
三田市に行った。(富士ちゃんと娘の寿子、厚子、舞子、4人が
当社の社員)
親切な林さんの畑を年契約で一畦を買ってあったピーナツの採取
の為であった。
あいにくの大雨、大寒で・・・3時間もよく畑に座れたものだと思う。
しかし、二人の若者曰く「面白かった〜!!」と!!
グショグショのズボン、ズルズルの鼻水、かじかんだ手・・・。
これもまた、この娘達の青春の一ページに忘れられない足跡を
残したことと思う。

     .

     .

私自身何よりも30年前に母と・・・今その娘たちと同じ空間で喜怒
哀楽を共に味わえる経営者としての喜びをしみじみと感じる事が
できた良い思い出になった。

P.S
彼女たちは見合い写真にこれを使う事は決してないだろう(笑)

                             平川 好子

                           
(2003年10月22日記)

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5.人のせんことしなあかん

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 『お客さんの心を動かすのは、板についた心からの言葉がけや。
 「ようこそ、頓珍館へ」「雨の中ありがとうございます」人と人の心
 を通わせるほんまもんの言葉は、店の活性化をうながす偉大な
 潤滑油や。』
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               いき
『大胆な趣向と粋なセンス』

結婚して三人の子供の母親になった私は、当然のこととして、商売の
係わり方も以前とは違ってきた。すでに年老いた母が、もはや店を続
けていくことができなくなったときに、
「君は嫁にもらった人間だが、お義母さんが店をやめることで生活が
できなくなったら、大黒柱である君をかっさらった責任≠ニして申し
訳ない。お義母さんの手や足の代わりになる程度であれば再び商売を
始めてもよい」
 と言ってくれた主人の理解もあって、私は商売に復帰することがで
きた。「正弁丹吾」を改装して作った純喫茶「ウィング」を皮切りに、やが
て「たんご」を再開店、パブ「シーホース」のオープン、別店舗に居酒屋
「頓珍館」、石橋に「サロン・ド・シーホース」と、私なりの新しい店づくり
の挑戦の中で、形態は種々に変わっても、義父の遺志は忘れずに継
ぐことができたように思う。
 妻の、母親の、嫁の立場から再出発した私には、二つの課題が生ま
れた。変わってはいけないものと、変わらなくてはいけないもの。私が
受け継いできた商いの心は、そのまま伝えていかなければならない。
二つの場所に同時に立てない私には、自分の思いをそのまま反映し
てくれる人材が必要になってくる。そんな人を育てていくことがそのひと
つ、つまり私流に言えば、富士ちゃん恭ちゃんに代わる若い戦友を作
ること。そしてもうひとつは変わらなくてはいけないもの、言うまでもなく
時代の流れにあった店づくりである。
 たとえば、日本がバブル景気にわいた頃には、思いきってパブの
制服をピエロにし、スタッフ全員ピエロ姿に飾り立ててお客さんをお出
迎えした。初日にこられたお客さんのひとりは、勢ぞろいしたピエロの
歓迎にびっくり仰天、呆気にとられて、その場をぐるぐる回りながら、
「おっとっとっと・・・・・・」
 と奇声を発した。この道化師は私の主人で、前もって知らせてあった
のに、「ほんとにやるかぁ!」と彼の目は言っていた。主人に限らず、
この大胆な趣向に初めは度肝を抜かれたお客さんも、やがて陽気な
ピエロの気分が伝わってくると、謹厳な顔が一変して愉快な道化役者
になられたりする。度を過ごさないよう、粋なセンスを学ぶために、
その頃店長を任せていた三香ちゃんとパリに飛んで、二人でいろんな
お店を見て回った。小粋なピエロもそんな中で思いついたアイデア
だった。
 お店に出るときは、もちろん私もピエロ姿だ。あるとき、店が終わって
車で帰宅していたとき、向こうからくる主人の乗ったタクシーとすれ
違った。私は窓から顔を出して、「いってらっしゃい!」と声をかけた。
鼻の頭を真っ赤に塗ったピエロの顔を見て、いささかぎょっとされた
運転手さんは、不思議そうに主人にきかれた(そうである)。
「お知りあいの方ですか?・・・・・・」
「うちの家内です」
 と主人。
「おっとっとっとっと・・・・・・」
 びっくりした運転手さんの手もとが狂って、あわやの事故を招く所だ
ったそうである。

                      き はく
『チラシ配りも一瞬の気魄』

「頓珍館」をオープンするときは、店内の壁の色をショッキングピンクに
し、腰板は赤、そして柱と障子の桟はすべて白色のペンキを塗った。
つまり、終戦後にやってきたアメリカの進駐軍が、日本の木造建築に
見られる木目の美しさを理解できずにベタベタとペンキで塗りつぶした
ように、あえて「トンチンカン」な感じを出すためにこんな奇抜な内装を
試みた。
常に「人のせんこと」を考えていた義父の商法の影響かもしれないが、
その義父は成功もしたかわりに、数々の失敗もしてきた。「頓珍館」の
立地条件は悪く、奇抜な私の試みが成功するかどうかは、ほとんど賭
けのようなものであった。
ハイカラ酒場のシンボルとして、店の娘たちのユニフォームは大正
時代の女学生を思わせる袴スタイルにした。そして、その袴姿で街頭
に立ち、連日のビラ配りに熱中した。
 チラ紙一枚もらってもらえるかどうか。たとえもらってもらえても、
即座に屑かごに放りこまれては何にもならない。ちゃんと目を通しても
らえるのでなければ。――この決定的な差は、通行人に呼びかける声
の勢い、目の輝き、一瞬にかける気魄があるかなしかの違いである。
どんなに粗悪な紙であっても、ティッシュなどをつけなくても、命がけの
熱意が伝われば必ずや受けとってもらえるものだと私は知った。
 通勤でこみあう朝の駅前は、ビラ配りにもってこいの場所である。
呼びかける声にも熱がこもる。
「池田市役所裏の頓珍館≠ナす! 忘年会、新年会、よろしくお願
いします!」
 一枚一枚手渡しながら、相手の反応を見るのも楽しい。若い娘たち
に混じって、ひときわ高い声を出している私に向けられた通行人の目、
目、目・・・・・・。矢絣の着物に緑の袴。頭に大きな蝶々のリボンをつけ
た私の姿を、遠くから立ち止まって眺めている人。往き過ぎざまにふり
返って見ていく人。・・・・・・
 通勤の時間は、同時に通学の時間でもある。八時を過ぎると、私の
三人の子供たちも駅にやってくる。
私を見つけて真っ先に飛んでくるのはいつも末っ子の千麿だ。次いで
次男の千輝が、一瞬遅れて長男の千人が駆け寄ってきて、衆人環視
の中で一分間のあわただしい母子の会話が始まる。私は学生服の乱
れを直してやったり、ハンカチと紙をちゃんと持っているか点検した
あと、三人のお尻をポンとたたいて送り出す。
「三人仲よく行ってらっしゃーい!」
 エスカレーターでずんずん登っていく子供たちの、高い所からきこえ
る「いってきまーす!」に私はもう一度、「いってらっしゃーい!」と手を
振って答える。師走の阪急池田駅の一画では、人騒がせなこんな
光景がときどき見られた。
2001年の著書『ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―』講談社刊、の一節より


チラシ配りも頓珍館オープン以来20年間・・・!!
「チラシ配りの正弁丹吾グループ」としてずっと続けて来た。不思議な
事に11月末のビラ配りが験付けになり毎年年末は満席に、本当に
お客様に対して感謝の気持ちでいっぱいです。
この間子供達も28才、23才、21才と大きくなった。長男の千人も昨年
「麺料理ひら川」をオープンにまでこぎつけた。パブ・シーホースは
駅前での25年に終止符を
打ち、頓珍館のすぐ近く
(池田市役所の東うら)に
移転オープン。(2002年6月)
制服がピエロの時代から、
今のタキシードスタイルまで
本当にこれでもかとばかり
に面白い事に挑戦してき
たように思う。それはイコ
ール私の商人としての
躍動感にあふれた青春
期にも思える。
昨年6月にきつ〜い飲酒に関する法律が出て、チョッと一杯のお酒も
飲めなくなり車のお客様が激減した。この事が私達"食べもん屋"が
生き残れるか消え去るかの大きな原因になった。これから「今」が
普通という方程式を解いていかなければならない。もしかしてこれまで
のどんな事よりも私たちにとっては大変な時代が来たのかもしれない
・・・・・・。
「またチラシ配りで頑張るゾ――!!」
「皆さま、応援して下さ〜い!!頓珍館をひら川をシーホースを!!」
本店正弁丹吾ビル2Fにあったパブ・シーホースが今の池田市役所の
東うらに移転オープン!!
共に25年のパブの歴史にピリオド!

『一つの店を閉じて・・・一つの店が始る・・・』

本店ビルでの最後の夜!共に語り、共に泣いたメンバーが店の壁に
床にそれぞれの想いを残し、三代目の千人の店「麺料理ひら川」へ
の希望と協力を誓い合った日でもあった。
私はこの宝物集団のトップであったこと、そしてこの人達と共に多くの
事をつくり上げてきた事を決して忘れない!!


                             平川 好子

                           
(2003年12月1日記)


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6.お客さんを動かす心からの言葉がけ


『お客さんを動かす心からの言葉がけ』

 お店では、、お客様に対して、気持ちのいい言葉を全員でかけること
を心がけた。
「いらっしゃいませ」
「お寒い中、ありがとうございます」
「どうもおおきに。またどうぞ」
 店ではあたり前にかけあっているこんな言葉も、ビラ配りと同じで、
心からの「言葉がけ」ができたとき、お客さんの心を動かす大きな力
をもっている。そのことを素晴らしい実践を通して教えられたのはあの
「がんこ寿司」さんであった。
 私が従業員を連れて「がんこ」さんへ行ったとき、開店までにまだ少
し時間があったが、外で待つのも寒いだろうと特別に入れてもらった。
その配慮もうれしかったが、お店に入るやいなや、
「ようこそがんこ≠ヨ!」
 と、他の店では聞き慣れないこんな歓迎の言葉で迎えられた。
また、店に入ってくる従業員(アルバイト)のひとりひとりが、
「おはようございます。今日も一日よろしくお願い致します」
と、店内に向かって気持ちのいい言葉を放っている。ゆったりとくつ
ろげる席について、それぞれに好きなもの(お寿司)を注文すると、
私たちの注文に応えて、そのつど板前さんの、
「ハイ、よろこんで!」
 という歯切れのいい言葉が返ってくる。
「トロお願いします」
「ハイ、よろこんで!」
「タコとエビお願いします」
「ハイ、よろこんで!」
 ・・・・・・という具合に。板前さんの「ハイ、よろこんで!」がすっかり板
につき、言葉が吐く息のように自然に出てきて、全く違和感を感じさせ
ないことに私は絶句した。これはすごいと思った。「がんこ」さんの底力
を見せつけられた気がして、少々オーバーに言うと、外食産業の神髄
を見るように思った。
 いいことはすぐに真似ようと、私たちは次の日から我がグループでも
これを実践することをみんなで誓い合った。
「ようこそ、頓珍館≠ヨ」
「今日も一日よろしくお願いします」
 早番で、従業員がひと足先に店を上がるときは、店内にむかって、
「今日も一日ありがとうございました」
 とお礼の言葉をかけてから帰る。雨の日などに、背広を濡らして
やってくるお客さんがいる。足もとを見ると、高価な革靴がびしょ濡れ
になっていて、雨の中を歩いてこられたことがわかる。池田駅界隈に
は雨に濡れなくてもすむ居酒屋がたくさんあるにもかかわらず、わざ
わざ傘をさして、この「頓珍館」にきてくださったことを思うと、お客さん
に対する感謝の気持ちがわいてきて、
「雨の中をありがとうございます」
と心から言えるようになる。言葉が板につくとはつまりそういうことで、
浮き立つような借りものの言葉ではなく、心から出た自分の言葉に
なったとき始めて、相手の心に伝わる力をもってくるのである。私たち
の日常にそんな言葉が満ちあふれるようになれば、日々の生活も
どんなに豊かになることだろう。
後日、私は「がんこ寿司」の創業者である小嶋社長とお会いした際に、
「がんこ」さんの今日も一日よろしくお願い致します≠ノ心から感服
した旨を話してから、
「とてもすごいことだと思いました。で、私たちも次の日から真似させて
もらったんです」
 と言った。始めは借りものにすぎなかった言葉も、今では「自分たち
の言葉になった」と言えるだけの確信がある。だから媚びることなく
そう言えた。すると、小嶋社長は大笑いされて、
「すごいのは平川さんの方ですよ。いいと思ったらすぐに実行に移す。
それも次の日からというのがねェ!」
 と言われた。人と人との心を通わせるほんまもん≠フ言葉は、
店の活性を産み出す偉大な潤滑油である。
(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より)



いいことはすぐ真似よう・・・言葉で言うのは簡単ではあるが、メンバー
一人一人が本当にお客様に対して、心から言葉をお伝え出来ている
かは分からない。しかし、それが大切な事だということは、私がミーティ
ング等を通して語り続けてきた。
言葉で忘れる事の出来ないお客様とのエピソードは数多くあるが、
お客様の結婚式、二次会への出席などでいつも求められた"詩の
贈りもの"は最も心に残っている。多くの若者たちが、たんご、頓珍館、
シーホースで"青春"の思い出を!!二次会、三次会で我グループを
使って頂けることが多かったのもお客様との歴史の深さを物語って
いるのかもしれない。
昨夜もR社のT君の結婚式の二次会が昨年オープンしたばかりの
麺料理ひら川の4Fであった。このことだけでも、T君との20年近い
お付き合いがあって実現したこと。あの若かったT君が・・・少し晩婚
のT君が若くて綺麗な奥さんをもらった!!忘年会シーズンでごった
返していた昨日(12/13)土曜日の夜8:00からの二次会!!
幹事のY君の希望は、僕達だけで楽しむから"ほっといてくれたら
いい"だったが・・・。申し訳ない位バタバタの一日の中の締めくくり
に、心よりお幸せを祈りながらイタリアから旅をして来た可愛いランプ
をプレゼントした!!


ここに昨日出来なかったお決まりの"詩"を心から添えさせて頂き、
今年最後の『よし子ごろく』を終わりたいと思います。
みんな若くお金もなくて、でも心だけはいつもピカピカの結婚式だっ
たり、二次会だったりしました。
今も目を閉じれば、あの頃の人達の顔・・・顔・・・顔・・・。

          なつかしき青春の日々にカンパイ!!


                
友 達

『一文無しでも 友達は やりきれない程 いいもんだ

       財布をはたいて おごっても 平気な顔して すましてる

     それが形になっている ググーンと 抱きたくなってくる

     一文無しでも 友達は やりきれない程 いいもんだ

        空など見ないで 風を聴き 寂しいとき程 すましてる

     それが形になっている ククーンと 涙が湧いてくる』


(どこで覚えたのか、いつ頃だったのか私にも記憶のないこの詩に、
心打たれた若き日の感性を忘れないでおこう・・・そんな自分でいたい
と、心を引き締めて新年を迎えたいと思う)



                             平川 好子

                           
(2003年12月15日記)


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7.おカネいりません

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 『語ろうにも語れない、語ったところでどうなるものでもない平凡な
 日々の暮らしの中のやさしさ。血を吐くような厳しい商いも、こんな
 やさしさに触れられるからこそ明日もがんばっていけるのや』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

『十年一日のごとく』

質素で、倹約家で、整理整頓の達人で、啓ちゃんのいる所にカオスの
生まれる余地はなかった。いつもきちんと片付いているから、ボトルの
列が乱れていたり、水道の蛇口から雫がたれていたりすると、その
ときになって始めて彼女の存在に気づかされるのだ。(彼女の目の届
く場所ではそんな現象は決して起きないから)いわば舞台の裏方仕事
のように、完璧にできて当然の世界では、役者のように注目されること
はない。啓ちゃんは二十年間、そんな裏の役割に徹してきた。
 鳥取県の小さな町で育った彼女は、中学生の頃から洋裁が好きにな
り、大阪に出てくる前は田舎町の縫製工場に勤めた時期もあったよう
だ。彼女のこの特技が今、ショータイムに着る育ちゃんたちのステージ
衣裳に生かされている。その出来栄えは素晴らしく、ブティックのお店
に並べられても決して見劣りしない。そうとうな時間と労力をかけた
オリジナルの衣裳は、ステージの育ちゃんたちをいっそう引き立ててく
れる。それを見るときの啓ちゃんはとても嬉しそうだ。そして彼女は、
当然の報酬に対しても、
「ママ、私は好きでやってんですから。お金なんてもらうと、今の楽しさ
がなくなってしまいますよ」
と言って一度も受け取ったことはなかった。
 ステージ衣裳だけでなく、彼女は誕生日のプレゼントに素敵なワンピ
ースを作り、私が初めて海外旅行に出かけたときは、ロングドレスを作
ってくれた。そして自分はといえば、十年前の古着で「十年一日」を通し
ている。
 正月にはケーキを持って新年の挨拶にきてくれる。これも千麿が生ま
れた頃からの習慣で、三人の子供たちの大好物だった手土産のケーキ
持参は、今も変わらない。そんなときに私はふっと思う。子供たちはも
うケーキに見向きもしなくなっている。いつの間にそんな時間が流れて
しまったのだろう、と。そして小さかった子供たちが、口も手もケーキの
クリームでいっぱいにしながら、カルタとりして遊んでいたお正月の
光景が蘇ってくる。
 淡い水彩絵の具で描かれたような在りし日のスケッチ。ページをめく
ると、啓ちゃんの膝の上で猫がまるくなって寝ている。次のページをくる
と、満開の桜の季節に、啓ちゃんがお客様のオープンサンドをせっせと
作っている。次のページには路地の人影を見送っている彼女の後姿が
見える。それはお客さんであったり、同僚であったり、ときには犬や猫で
あったりする・・・・・・。どのページをめくっても、それは淡いタッチの水彩
画だ。
 こんなこと(啓ちゃんの大病)でもなかったら、私はそんな変哲もない
水彩画を、今さら心の目に写して見ることもなかったであろう。しかし
私は、二十年ぶりに眺めたその風景に、今さらのように感動したので
ある。すべてが水彩画で、筆のタッチがまったく変わっていないその
ことに。そしてその正体が、啓ちゃんのやさしさそのものだったという
ことに。
 語ろうにも語れない、語ったところでどうなるものでもない平凡な日々
の暮らしの中で、やさしさは人の心の中にいっぷくの忘れ得ぬ風景を
刻んでくれる。私は啓ちゃんとともに過ごす商いの時間の中で、そん
なスケッチをこれからも刻んでいきたい。
(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より)



新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
正月がくる度に啓ちゃんの事を思い出します。
啓ちゃんはその後、ぜんそくがきつくなり今は休んでいますが、この
二十年で彼女が作ってくれた手作りのドレスは今もショータイムで
メンバーが大切に使わせて頂いています。
彼女の残してくれたものの大きさを感じる事があります。それはどん
な厳しい商いも優しさに支えられて、やってこれたのだということ。
しみじみそう思いながら・・・。
今年も一年頑張ります。初心を忘れずに・・・。
皆様本年も重ねてどうぞ宜しくお願い申しあげます。


山本リンダの唄や踊りが上手だった
めぐちゃん。帽子まで啓子作でした。
この元気さを啓ちゃん早く取り戻して
カムバックして下さい。
啓ちゃん十八番のピンクレディを靖ちゃん
が、ちゃんと今も受け継いでいます。
育ちゃんが一番沢山ドレスを作ってもらいましたよネ。私も(ママ)こんな水玉!!のドレス!! 毎年恒例のハワイアン(お盆の頃)!!スタッフ全員にムームー(ドレス)を!!今も大切に夏には大活躍していますヨ。 X′マスの一コマ!!麺料理ひら川の店長美佳ちゃん、ぽっちゃりしていること・・・(笑)!!私の(ママ)スマートなこと・・・!!育ちゃんのドレスの美しいこと・・・!!感謝あるのみ!!


                             平川 好子

                           
(2004年1月1日記)


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10.ジャンボおにぎりと"日の丸べんとう"

長男の通った小学校は私学(箕面自由学園)だったから、何かにつけて派手な面も多く、ことに運動会や遠足の昼食時には、お花見弁当さながらの光景がいつも見られた。三段重ねの重箱が並べられ、まるで競い合うかのように華やかなご馳走が次から次に展開される。子供たちはそんなにいっぱいのご馳走を食べきれないで、ほんの三分の一を平らげるのが関の山。運動会でまだ昼からの競技も残っているのに、食べすぎて走れなくなったら大変だ。子供たちは、そんなご馳走よりも、早く運動場に行って遊びたいに決まっている。空っぽの運動場が、誰もいない真昼の公園のように淋しい。
そこで千人が三年生の運動会を迎えたときに、私は子供と話しあった。
「千人、あしたの運動会のお弁当に、お母さん、おにぎりにしようと思うんやけど・・・・・・」
「おにぎり?」
「そう。超特大のジャンボおにぎり」
「へぇ! ジャンボおにぎり! すごい!」
「千人の頭くらいのおにぎり作ってあげるから、それでええな」
「うん。おもしろい」
 と、子供も喜んで「うん」と言ってくれたので、私は一辺が二十センチもある三角おにぎりを作った。中身の具は、シャケ、たらこ、ちりめんじゃこ、塩昆布、かつおぶし、梅干・・・・・・といろんなものを詰めて、どこから何が飛び出してくるかわからないスリルに飛んだ超特大のおにぎりだ。食べ応え十分だが、子供はおにぎりを入れたリュックサックを背負うとき、ぺちゃんこの軽さにちょっと淋しげな顔をした。
 運動会でも遠足でも、このジャンボおにぎりは、人の目を引いた。いつしか千人のことを思い出すのに、ああ、あの大きなおにぎりを持ってくる子供ね、と言われるくらい有名になった。ところが、千人がおにぎり一個で他には何も持ってきていないのを知ると、「千人くん、これおあがんなさい」
「よかったら、これもおあがんなさいね」
と右から左から重箱が差し出されるので、私は困った。その好意はうれしいけど、それではジャンボおにぎりにした意味がなくなる。だが、無下に拒否するわけにもいかず、
「ありがとうございます」
「すみませんねえ」
と言いながら、私たち母子は苦笑いした。
子供(千人)の通った小学校の年中行事のひとつに山歩き≠ェあって、その日だけは母親たちも子供のお弁当に競い合う必要はなかった。学校側の指定による日の丸弁当≠ノ決められていたからである。白いご飯の真ん中に梅干がひとつ、文字通りの日の丸を型どったお弁当だ。これを食べて池田の五月山から六甲摩耶山までの山道を小一から中三まで九年間かけて歩くのである。戦時中でもないのに、とか、軍国主義だ、とか、そんなおべんとうで子供が歩けなくなったらどうするんですか、とか、種々な非難の声はあったに違いないが、私はこの行事に子供が参加できたこの一日だけでも、この学校に入れてよかったと思った。
 日の丸弁当はおろか、ご飯もろくに食べられなくて、子供たちがばたばた死んでいった時代もあるのだ。遠い遠い昔の話ではなく、ほんの五十年前のことなのだ。実感することはできなくても、そんな事実があったことに対して、無関心に通りすぎることはできない。たった一日でも子供たちが電車を忘れ、ハンバーグを忘れ、テレビゲームを忘れ、厳しい自然に接するという体験をしてみることは、決して意味のないことではない。そんな小さな実践によってしか、無関心の芽を摘むことはできないではないか。だから私もその日がくると、喜んでジャンボおにぎりを忘れ、学校への感謝をこめて、貧しかった私自身の過去に思いをはせながら、心をこめて日の丸弁当を作った。


以前にこんな文章を書いたことがありました。
梅干し一つとっても・・・和歌山の南部産の南高梅を毎年、どっさりつけて子供のお弁当にもいつも入れたのを思い出します。
我グループも(頓珍館やひら川)たかが梅干しされど梅干し・・・オール店仕込みです。先日ワッハ上方で行われた"2004 健康おおさか21推進フォーラム"にパネラーとして参加させて頂き・・・若者達と話し合ってつくづく感じたのは・・・
・朝食も食べない・・・
・コンビニ弁当のみの食事・・・
・毎日スキヤキうどん(おいしいから)・・・etc
と私達の年代には考えもつかない食習慣が飛び出し"こわい"と実感致しました。とにかく言い続けます。
しっかり考えて少しでも身体に良いもの・・・を食べましょう!!
少しでも良い店!?・・・を選んで下さい!!(笑)と。
  先日ワッハ上方で大阪府の主催で上記のような集いがありました。
  外食産業(大阪外食産業協会・ORA)の代表としてパネラーで参加
  させて頂きました。
イベント終了後、
立原啓祐さんと講師控室前にて!!

                             平川 好子

                           
(2004年2月15日記)


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11.客商売は人生修業の学び舎

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 『毎日の接客は自分磨きの道場や。与えられた仕事に全身全霊を
 そそぎ込む。そんな生きた商いの時間の中で自分が磨かれてゆく。
 粗野から誰のためでもない、自分自身のために働くんや』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

数年前の慰安旅行で私たちはシンガポールへ行ったが、この町で見かけた子供たちもみんな目が輝いていた。子供も大人も今日を生きるために働いている人たちがエネルギッシュなオーラを放って、町全体が躍動感に満ちていた。こんな生きた町から、私たちは生きた勉強ができる。見るもの、聞くもの、触れるもの、すべてが熱気を帯びて迫ってくる。中でも恵ちゃんにとってのシンガポールは、彼女の中に強烈な印象を残したようだ。
 私たちがシンガポールに着いて、町のレストランで最初の夕食をとったときのことであった。メニューを見ている私たちの所に、三十くらいのホールの女性がきて、
「ここは貝料理がとびきりにうまいよ」
と勧めた。私たちはとびきりにうまいその料理を注文した。あらかたお皿が空になった頃に、また彼女がきて、
「ここの肉料理は絶品だよ」
と勧める。肉のお皿が空になると、すかさず彼女がきて、
「なんたって、ここにきて野菜のいためものを食べない法はないよ」
と言う。その間髪を入れないタイミングのすごさ。まるで彼女の目が私たちのお皿にすいついているかのように、野菜のお皿が空になると次は焼きそば、続いてご飯と、彼女の誘導にのせられて、次々にたいらげていくと、最後に、
「シンガポールのフルーツは世界一だヨ」
と言ってダメ押しの一品を注文させた。そしてもうこれでオーダーをとれないと見極めるやいなや、表の呼び込みに回って、よく響く声でまくし立てていた。その凄まじいばかりの商いぶりが、不思議とくどくなく、嫌味もなく、すがすがしく感じられた。その迫力にカルチャーショックを受けた恵ちゃんは、まるでホールの彼女の熱風にあてられたかのように顔を紅潮させ、その一挙一動を食い入るように見つめていた。
 恵ちゃんは貧しさを知らない。好きなことができ、贅沢に慣れ、命をかけてしなければならないようなことは何もなかった。店でお客さまの注文をきき、言われたものを、
「お待たせいたしました」
と、ただ出していただけの自分と、シンガポールの彼女との違い、同じホールの女性としてその違いを、痛烈に思い知ったに違いなかった。
「生きるために働きなさい」と言っても、今の若い人たちに通じるはずもない、そんな豊かな日本で私たちは暮している。そんな私たちに、二泊三日のシンガポール旅行は、生きることの意味を問い直してくれる旅であった。豊かさの中でハングリー精神をなくさないように、生きる輝きをなくしてしまわないように、と。
(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より)

2002年6月に施工された道交法により、車でのお客様が減って大変な時代が・・・。慰安旅行に海外・・・なんて夢の話になってしまいました。
でも年に一度くらい皆と一緒に旅をして、死ぬほど飲んで語って、心の底から笑いたい、老いも若きも男も女も、全員参加(強制はしないけれど)の慰安旅行は、何といっても最高のコミュニケーションです。で、今年も一泊二日、近くの神鍋(かんなべ)に行ってきました。スキーに温泉、おいしいカニ料理に舌鼓をうち、夜も更けるまでトランプやゲームで遊んでいると、宿のおじさんが来て外に出てみろと言う。
「都会ではこんなに星は見えんでしょう!!」
その言葉に誘われて外に出て夜空を仰ぐと、
「わぁ!・・・」
何という素晴らしさ!光り輝く満天の星に圧倒されてしばし呆然!
まっ先に恭ちゃんが、次いで富士ちゃん、それから私の三人は、ナツメロの大合唱になりました。
とにかく若い娘たちに評判のよくないその歌とは、
「星影のワルツ!!」
だって、本当に星が降るようだったんですよ。自然は美しいし、いつ来ても料理の味は変わらない。素朴な人情に触れて何だか実家に里帰りしているようで、来年も必ずここに来るゾ・・・来れるように頑張るゾ・・・と密かに心に決めた私(ママ)でした。

                             平川 好子

                           
(2004年3月1日記)


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13.従業員の人生を抱えこむ

今の若者たちがすぐに切れてしまうのも、その原因のひとつは、叱られ方を知らないからである。間違いを指摘されても、受け入れ体制ができていないから、何か言われると頭の中が空中分解を起こしてしまう。そんな若者に対していくには、まず叱られ方から教えていかなくてはならない。当然雇用関係の枠を越えて、倫理道徳の分野にまで踏み込まずにはすまされなくなってくる。
 たとえば、従業員の中には「できちゃった結婚」をした子もいて、佐保君の場合、私は彼に結婚式を挙げさせなかった。彼の両親が結婚に反対して、式にもでないということだったから。彼女の親族だけを呼んで式を行うというその無神経さに私は猛反対して、彼が納得のいくまで説得した。その方が将来、彼の両親との和解を早めることになると思ったからである。で、式も披露宴もない、記念の写真だけの結婚式になったが、彼はそのときまだ二十歳すぎではなかったろうか。
 精神的にも経済的にも未成熟の男女が、一時の情熱にかられて一緒になり、子供を作ってしまう恐さ。そんな若者の危うさ、目に見える未来の崩壊を、私は黙認しておくわけにはいかない。従業員と一口に言っても、その子たちの人生を抱えこむのだから、生半可な気持ちでは対処していくことはできない。それは自分自身との戦いであるといっても過言ではないだろう。
 お父さんがここで学べと言って連れてこられたユカちゃん。料理人になりたいと、奄美大島からやってきた麻里世ちゃん。「ウィング」オープンのときの、素晴らしい喫茶バーテンだった楠木さんの甥っ子の今坂くん。いつもマイペースで、もくもく働いている川畑君と乾君。料理が見違えるほど上手になった光瀬君。みんな若く、今青春に輝いている若者たちだ。せっかくめぐり会ったひとつの店で、ともに過ごす時間の中で、働くことの楽しさと、生きてることの喜びを知ってほしいと私は思う。
 そしてまた、三十年をともに過ごしてきた稲垣さん。「たんご」オープンのとき、『母を想い、友を想い、恋人を想い、昔をなつかしむ店』と、店のキャッチフレーズを徹夜で色紙にしたためてくれたのも彼女だった。また、ひょんなご縁で知り合って、陰でしっかり支えてくれている池田さんや智子さん。いつの日か、昔を思うとき、彼女たちの脳裏に、「頓珍館」が懐かしく蘇ってくるような、そんな空間であってほしいと私は願う。

(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より)

今回はこんな若者たちのひとり、光瀬君のことをお話しましょう。彼もまた高校中退組の一人で正弁丹吾グループに加わったのは、たしか17歳の時だったと思います。
そのときには、私は思いもよりませんでした、まだ10代の若さなのに両親の離婚によって、彼が5人家族(母親と姉妹3人)の重責を背負っているなどと・・・。
その責任感もあってか、仕事も真面目に黙々とこなし、今では麺料理ひら川の料理人として2番手を努めるまでになりました。
いつだったか、彼は素行のよくない妹を店に呼んで、遅くまで話し合っていたことがありました。父親代わりの光瀬君。いじらしいではないですか。父親のいない兄妹二人のそんな小さな場面が私の脳裏に焼きついてしまいました。
その日以来、光瀬君を見る私の目が変わったことは言うまでもありません。同じような宿命を背負った私には、弱みを見せまいという彼の一所懸命さが痛いほどわかるのです。
でもね光瀬君、たまには無理しないで、辛いこともみんなにぶつけていいんだよ。君の背負っている重い荷物も、いっしょに背負ってあげようという気持ちは、みんな心に持っているんだから・・・。光瀬君の妹も、無事高校を卒業することができました。そのささやかなお祝いをお店でやらせてほしいと言ったときは、本当に嬉しかった。小さな喜びでもみんなで分かち合えば、大きな大きな喜びに変わります。
よかったね、光瀬君。
光瀬めぐみちゃん、ご卒業おめでとう。
お兄ちゃんの腕をふるった料理をいっぱい食べて、お兄ちゃんのような思いやりのある人になってくださいね。
長男千人と二人で、新店舗
オープンから多くの料理を!!
光瀬作の造りも、彼の想い出
に残ることでしょう!!
お母さんと妹とのカンパイ!!
あめでとう!!
家族5人の中心に光瀬君が
ドカッと!!
ガンバレ・・・!!

                             平川 好子

                           
(2004年4月1日記)


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