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よし子ごろく

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17.大事なのはお金ではない

もうひとり、
「あんたやったら商売できまっせ。しっかり頑張りなはれや」
 そう言って私に大きな自身を与えてくれたのは、隣り町(川西市)の大地主の浜増さんだった。
いつも出前の寿しを届けるお得意さんで、大きな家は、「まいどぉ!」と大声を張り上げないと奥にきこえない。家の周りは一面に紫蘇畑が広がっていて、旦那さんは畑に出ておられることもある。そんなとき、私のバイクの音を聞きつけると、おもむろに腰を上げ、首にかけたタオルで額の汗を拭いながら畦道をゆっくり歩いてこられるのだった。
 秋口になると、紫蘇はいっせいに可憐な花をつけ、やがて小さな実を結ぶ頃には、畑一面は紫蘇の香りでいっぱいになる。この紫蘇の実を料理に添えれば、どんなに引き立つことだろう。そんな思いが不意に私の口からもれたとき、浜増さんは、
「何ぼでもしごいていきなはれ。あげまっせ」
 と平然と言われる。
「えっ? ほんまですか?」
 思わずきき返したのは、他でもない、ここの紫蘇はここでしか栽培されない特別の極上種で、門外不出の貴重な代物だったからだ。紫蘇の葉ならともかく、開発の危険にさらされる実を出前娘にくれてやるなど、考えられないことだ。
「ほんまにもらってええんですか?」
「紫蘇の実を何にするんや?」
「もちろん料理に! 特に塩づけして料理の最後のお茶漬≠ノ入れたいんです」
「そんならいるだけ持っていきなはれ」
 私はさっそく畑に座り込んで、夕暮れまで紫蘇の実をしごいた。そして持って帰って塩づけにして、数ヵ月後に試食してみた。そのおいしかったこと! その香りのすばらしかったこと! こうして秋の季節がくると、香り豊かな紫蘇の実はたんご≠フお茶漬に風味と味覚の最高のプレゼントをしてくれた。でもそれにまさるプレゼントは、私に対するご主人の「信頼」だった。たった一粒の小さな実も、それが悪用されたらどうなるか。外の種屋のメーカーの手に入ったら大変なことになる・・・・・・その危険性を百も承知のご主人が私に示された無私の好意は、後の私の商売観に大きな影響を及ぼしたと言っていい。商売をしていく上でいちばん大事なのはお金ではない。信頼だ。この信頼なくしてどんな商売も成り立ちはしないのだ、と。
 正弁丹吾の新たなオープンの日も目の前に迫った日、いつものように出前の寿しを届けた私はご主人に報告した。
「オープンの日も四月十六日に決まりました。二階のお店はたんご≠ニいう名前にしたんですよ」
 ご主人は、にこやかに頷いて、
「ま、せいぜい気ばってやりなはれ!」
「はい。いよいよとなると準備やなにかで、もうてんてこまい舞いの忙しさ! ほとんど寝る時間もないくらいなんですよ」
「ほう! それは大変やな」
「正直なところ、母と私の女ふたりでほんとうに店をやっていけるのんやろうかと、今頃になってそんな不安がもたげてきたりして・・・・・・ときどき、すごく恐くなって、寝ててもハッと目が覚めたりするんです」
 するとご主人は言われたのだった。
「あんたやったらやれまっせ。あんたの顔は恵比須さんみたいにいつもにこにこしてはる。そういうお人は器も大きく、お天道さんもちゃんと見守ってくれはる。心配せんとドーンと自信もってやりなはれ」
「はい」
と私はとびきりの恵比須顔でご主人に答えた。目の前の畑は春先のことでまだ紫蘇もなく、こんもりと盛り上がった土の線が、何列にもわたってまっすぐ伸びていた。不思議なことに、広い黄金の紫蘇畑には、囲うべき垣根もフェンスもなかった。当時は人情も豊かないい時代で、きっとそんなものを敢えて作る必要もなかったのだろう。
(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より)

テーブルを囲んで家族水入らずの楽しい晩餐。
夕映えの海を見ながら恋人どうしの素敵な食事。
別れを前に、あるいは再会を祝っての食事のひとときは、私たちの人生に忘れがたい思い出を残してくれます。あのときに誰と何を食べ、何を飲んだか・・・・・・デザートやコーヒーの香りに至るまで、私たちの舌は実に細々と記憶しているものです。そんなとき、目の方はどうでしょう。味もさることながら、視覚も十分に楽しむことができれば、たった一度の食事の記憶がさらに鮮明なものとなって残ります。つまり、テーブルコーディネートという演出が欠かせないわけです。盛り付けや器の配色配膳にと、食卓をアートにまで高めるべく趣向をこらすそのアーティストをテーブルコーディネーターと呼んでいます。コーディネート(coordinate)という英語の呼び名から、何かバタくさい新しい職業と思いがちですが、これは古来私たちの食卓をさり気なく飾ってくれた和風にもあてはまります。会席料理に見る粋を極めた配膳の妙は、見る人の目を奪います。食事を提供する仕事をしてきた私は、配膳に関してあれこれ心を配ってきたのは言うまでもないことですが、昨年「第一回優しい食卓コンテスト」がMIDシアターで開催された折、ふと思いついて出品し、それがまぐれ入選したことから、テーブルコーディネートの世界に今まで以上に興味を持ってしまいました。
で、今年の二回目のコンテスト(7/1〜7/3)に出す作品作りをしていたときのことです。
今回私は「嫁ぐ娘と最後の晩餐」をテーマにコーディネートしてみることにしました。娘のいない私の密かな夢だった"嫁ぐ娘への想い"をこめて・・・・・・。
打掛の袖をテーブルクロスに使い、そこには「花嫁人形」がどうしても欲しいのです。
探し回っても見つける事ができず、思い余って友人の池田さんにお願いしました。
「どうしても千代紙で折った花嫁人形を使いたいんですが、探して頂けないでしょうか」
池田さんは一人一人にあたって下さり、その一人がまた別の人に・・・・・・というように情報はいろんな場所にめぐり行き、とうとう千代紙作家の先生の所までたどり着くことができたのです。その先生は、池田さんにとっても未知の方でした。
出品のしめ切り日もあと一日に迫り、「花嫁人形」のことばかり考えながら一夜を明かした朝のことです。疲れきって眠りについたとき、「中村さんという先生が、人形をもって今お店に来られてます」との電話にとび起きました。きくと、「郵便局に朝10時までに出して頂ければ夕方に私の手元に着く」という間違った情報を信じた先生は、その朝9時に郵便局に。しかしその日には着かないと言われ、その足で高石市から池田まで(二時間近くかかる)わざわざ届けてくださったのです。顔も知らない全く未知の私のために、千代紙の小さな小さな花嫁人形を持って!
「花嫁人形」のうれしさもさることながら、先生の無償の好意に興奮と感動で心が高ぶり、その日はとうとう一睡もできませんでした。
長い人生には、こんなうれしい日もあるんですね。
夢の蕾(つぼみ)が人の好意の光に触れて美しい花を咲かせた。そんなおとぎ話の一篇でした。

「贈・誕生日〜母から娘へ〜」

ウェディングドレスしか着ないと言う娘!おばあさまから、あなたに着せてと頂いた打掛の袖をバッサリ切ってテーブルクロスに。一針一針縫いながらふと見ると鶴が大きく羽根を広げて♪〜金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう〜♪と。
今宵は我家で最後の誕生会!毎年二人で作ったお祝い料理は母さんが伝えたい味、この家のね!!そうそう父さん手造りのお祝いの壷の手は、あなたが赤ちゃんの時の手形だヨ!
当グループ各店にチケットございます。
詳しくはお尋ね下さいませ。

                             平川 好子

                           
(2004年6月1日記)


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18.テーブルコーディネートについて―その2―

前回お伝えした第二回目の"やさしい食卓コンテスト"は、中村先生からの思いがけないプレゼント―可愛い千代紙の花嫁人形で飾った、私にとっては最高のテーブルコーディネートになったのですが残念ながら落選してしまいました。
コンテストである限りは、仕方ありませんね。
けれどもそれを通して出逢えたひとつのめぐり合わせは、私には入選以上の嬉しさだったことに違いはありません。
実はもうひとつ、別のテーマでテーブルコーディネートしてたのですが、いい機会ですからこれも見て頂ければ・・・と思い、今回はこのコーナーで一緒に水色のテーブルを楽しんでみてください。
『定年後はゆっくり!ゆったりと!』
夏は鱧!と毎年くり広げた私と彼の結婚記念日!!
今年定年の彼の為に水いろのテーブルを!30年続けた趣味のダイビングも少し休んで、旅で集めたお皿やグラスを酒の肴に、ボチボチ飲みますか!!
食器棚を見ると、中国から、仏蘭西から、伊太利亜から来た随分沢山の仲間たちがツンとすまして座っています。
近くで採れる野菜や魚を、とびっきりお気に入りの器に盛って、これからは、のんびり、ゆっくりいきましょうヨ、ねぇ、お父さん!!


                             平川 好子

                           
(2004年6月18日記)


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19.技術より心を学ぶ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 『店に料理の味や技術を学びにきているのやない。人間の心を学
 びにきてるんや。毎日を人とのかかわりの中で生きている私たち
 にとって、一瞬のかかわりが人生を左右することだってある』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私が暴走族の哲次君を店に入れたとき、即座に決断させたのは、彼の目を見ているうちに、その奥底からかすかな叫び声を聞いたからであった。リーゼントに突っ立てた金髪の頭や、あきれるばかりの派手な服で、精一杯突っ張っている彼の目の中に、十六歳の少年の、まだ汚れていない輝きがあった。それが何かを訴えていた。二、三の問答があって、私は躊躇なく彼を受け入れたのだが、そのときのことを、彼自身が後に、こんなふうに書いている。

『僕は高校一年のときに、アルバイトとして正弁丹吾グループに入りました。面接のときにママに「ここはきついで。がんばるか」と言われ、「がんばります」と言ったものの、最初はとてもきつい感じで、ほんの四、五時間の洗い物で、くたくたになったのを覚えています。初めに僕が感動したのは、入って何日後かだった僕の誕生日に、ママが茶色のおしゃれなシャツをプレゼントしてくれたことです。そのときはママからお店(頓珍館)に電話があって、「あんた、何色の服が好きや?」ときかれて、僕は「茶色っぽいのが好きですけれど・・・・・・」と言ったら、しばらくしてから茶色のシャツを僕にプレゼントしてくれたのです。僕は、それまでいくつかのアルバイトをしてきましたが、経営者である社長からプレゼントをもらうなんて考えたこともありませんでした。まして、色の好みまできいてくれたときは、びっくりしました。僕はそのとき、とても嬉しかったです。
 ママは今でも社員のひとりひとりに誕生日のプレゼントをあげています。これはとても素晴らしいことだと思います。そして僕はしばらくしてから高校を中退して、アルバイトから社員になりました。社員になってから、ママはいろいろな勉強会やORAの社長さんたちのお話や、新入社員の入社式などに参加させてくれています。ふつう会社では、十七歳の新入社員がこんな大事な勉強会にはなかなか参加させてはもらえないと思います。それでもママは何か勉強会があったら、いつも声をかけてくれます。僕も最初はよくわからなかったお話などが、最近は少しわかるようになってきました。このこともママのおかげです。ママは言ってました。
「このグループに料理の味や技術を学びにきているのやない。そういう技術やったら、よそに行って何ぼでも学べる。このグループには人間の心(ハート)を学びにきてるんや、そう思うて頑張りな」
僕は本当に素晴らしいと思います。もちろん料理や技術もたくさん勉強になっています。しかしこのグループは、人間にとっていちばん大事なこと(こころ!)そしてやさしさ! を第一に学ばせてくれています。今年の秋でこのグループに入って四年になります。年も今年で二十歳です。ママには感謝の気持ちでいっぱいです。これからも一生懸命がんばっていきます。』

 これは今から四年前に、商業界が発行している「飲食店経営」の取材を受けたときに彼が書いた文章である。しんどい皿洗いから始まった仕事を、とにもかくにも彼は四年間がんばってきた。そして、それまで作文など書いたことのなかった彼が、四年前の自分を振り返って、正直につづった彼の言葉である。つたない言葉でも、目を自分自身に向けることのできだした彼の、心の成長が伝わってくる。暴走族の哲次君が、その暴走中に一時足を止めると、運よくそこはアルバイト募集中の店であった。遊ぶ金欲しさに飛び込んだ彼に、四年後の自分の姿、暴走服ならず、紺のはっぴを着た自分の姿など、想像もできなかったに違いない。
 哲次君がきつい労働と、それ以上に辛い対人関係の中にあっても、逃げ出さなかったのは、恐らく彼が始めて経験した心の感動があったからだと思う。ひとつは、アルバイトではあっても、自分が採用されたという嬉しさ。そのときはほかに三人の高校生が同時に面接にきたが、私は何の問題もなさそうな三人を断って、哲次君の方を店に入れた。それは先にも書いた私の直感で、彼の目が私に何かを訴えてきたことによる。おこがましい言い方になるが、この子は助けを求めている。この子を突き放してはならないと、そんな気がしたからだ。哲次君にしてみれば、自分が選ばれた、という思いが、自分はダメだ、という思いに打ち勝った、自信回復の勝利の一瞬になったわけだ。思いなしか、「がんばります」と答えた彼の声に、そんな響きが感じられた。
 もうひとつは、思いがけない人からもらった茶色のシャツである。それは誕生日のプレゼントとして、彼がこれまで親や友達からもらった贈り物とは違う意味をもっていた。
 私が従業員たちに誕生日のプレゼントをするのは、単に感謝の気持ちを伝えたいからではない。街を歩いてプレゼントの品物を選んでいるとき、そのときだけは、自分が送りたい相手と一対一で私的な会話をしているときである。彼(もしくは彼女)の顔を思い浮かべながら、あんた、茶色が好き言うたな。茶色もいいけど、あんたにはもっと明るい色のほうが似合いそうや。黄色はどう? 色黒いから。オートバイ乗り回してたら、そりゃ顔も焼けるわな。・・・・・・等々、店でいろんな品を物色しながら、私は彼(もしくは彼女)と二人だけの会話をする。店でのそんな数時間が私にはとても大切な時間だ。一年に一度くらいはそんな時間があってもいい。いや、努めて作らなければならない。それを私は誕生日のプレゼント選びの日に当てているわけである。
 したがって、私は哲次君に対して、特別のことをしたわけではない。一年に一度、すべての従業員にするように、その日、哲次君と二人だけのプライベートの時間を持っただけである。
 哲次君は、思いがけないプレゼントに感激した。彼の感動は、今までしてもらったことのないことをしてもらった感激であった。だから四年たった後にも、その感動は彼の心の中に残った。言いかえれば、彼はこれまで、親以外にまじめに話のできる大人など知らなかったし、自分の欲しいものを誕生日のプレゼントにくれる大人がいるなんて思わなかった。つまり、自分に目を向けてくれる大人たちのいない世の中、暴走族のレッテルを貼り、決めつけ、容赦なく切り捨てていく大人たちへの無言の抗議。ささやかなプレゼントが彼に与えた感動の裏側に、そんな彼を始め、落ちこぼれていった多くの少年たちの声なき声を私はきく。
(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊、の一節より

6月19日は、私の58回目の誕生日でした。
半世紀も年を重ねると、誕生日は我が身をふり返って"老い"というものを身近に知らされてしまう、そんな悲哀感にひたされる日にその内なるのかも知れません。
子供の頃、誕生日は何とも不思議な一日でした。
ケーキもローソクもなく、いつもと何の変わりもない一日。私だけが知っている特別な日。「おばあちゃん、今日うちの誕生日なんよ」
「あぁ、そうやったかいなぁ」で終わった日。それでも6月19日は、他の日とは違う、絶対に忘れることのなかった日・・・・・・。
そんな時代だったと思うのですが、友達の誕生日に呼ばれていった記憶もありますから、その頃の子供の中にもごちそうを食べたり、プレゼントをもらったりした子はいたに違いありません。
誰にもある誕生日という特別の日を意識しだしたのは、結婚して子供ができた頃からでした。子供が幼稚園位になると、友達を呼んで子供たちの好きなものを作ってテーブルに並べてやったりしました。喜んではしゃぐ子供の顔を見るのが私自身の楽しみになりました。そしていつか、子供だけでなく従業員たちに対しても同じように行うようになっていました。
街を歩いてプレゼントの品物を選んでいるとき、そのときだけは自分が贈りたい相手と一対一で私的な会話をしているのです。彼(もしくは彼女)の顔を思い浮かべながら、あんた、茶色が好き言うたな。茶色もいいけどあんたにはもっと明るい色が似合いそうや。
黄色はどう?色黒いから。オートバイ乗り回してたらそりゃ顔も焼けるわな、親への送金で金欠病言うてたから今年は奮発するか・・・・・・等々。
いろんな品を物色しながら、私は彼(〜彼女)と二人だけの会話をする。プレゼント選びのそんな数時間が私にはとても大切な時間になってしまいました。
こんなことをずっと続けているうちに、私の誕生日にもまた、従業員たちからプレゼントをもらうようになっていました。私がそうしているように、デパートで私と私的な会話をかわしながらプレゼントをくれる人。単なるお返しとしてプレゼントしてくれる人。プレゼントに添えられているメッセージが私の宝石箱にしまいたくなる程心が輝いている人・・・・・・と種々ですが若い男の従業員が、中年女性の小物を求めるときの心境や如何(いかん)は?・・・・・・恥ずかしさや真っ赤になった彼の顔を思い浮かべて、おかしくもあり、それ故によけい嬉しくもなります。
もらったプレゼントを通して、私は従業員ひとりひとりの心の中を知ることができます。
と同時に、それは私自身の心の反省を促します。忙しさにかまけて、プレゼント選びに費やす貴重な時間をおろそかにしなかったか。長年の習慣でこの大切な儀式が、バレンタインのギリチョコになり下がっていはしないか・・・・・・と。
つまり、今や私にとって誕生日は、従業員たち及び私自身の心の成長を知らされるバロメーターになっているとも言えます。
誕生日のプレゼントに限らず、お中元やお歳暮の儀式も、本来は心からの感謝を伝える美しい日本の風習であるのでしょう。年賀状もまた、相手を思い浮かべながら挨拶を送る、一年に一度の私的な交流なのでしょう。
そしてまた、私のこのコーナーも、月に1,2度、未知の方々を思い浮かべながら、密やかな思いを伝える私的な通信でありたいと、そう願っているのです。


元・暴走族の哲次君!!
このタイトルで「ワイドABC」「ちちんぷいぷい」等、
多くのテレビ、新聞、雑誌に彼の事が・・・
我社のほこりの1人です。
今を生きる哲次君!!
この笑顔に12年の自身が!!
高校中退だってやれるんだぃ・・・・・・と!!



                             平川 好子

                           
(2004年7月2日記)


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20.心ひとつに・・・・・結婚式!協奏曲

5月30日に証券会社に勤めるNさんが結婚され、帝国ホテルでその披露宴がありました。
Nさんと私は、お客さんと店主の関係にすぎませんが、15年以上のお付き合いを通して披露宴に招待して頂き、喜びもひとしおです。
長い歳月の間に生まれていた、利害関係を超えた交流を思って・・・・・・。
身内だけの小さな披露宴も私は好きですが、帝国ホテルの何もかも最高に行き届いた豪奢(ごうしゃ)で贅沢(ぜいたく)な披露宴もまたいいものでした。新婦の美しさに心を洗われるのも、披露宴の大きな楽しみのひとつです。
ウェディングドレスから打掛け姿に、カクテルドレスにと、お色直しのたびにかわいい!
何て素晴らしいセンスなの!・・・・・・と。
心の中で、ため息交じりの歎声を発してばかりの私でした。
会もそろそろお開きになりかけた頃、「それでは最後に平川好子様から・・・・・・」と司会の方から言われたとき、何も知らなかった私は全くうろたえてしまいました。最後のしめくくりになるようなスピーチの準備などしていないのです。マイクを渡されて、ともかく「おめでとうございます」と壇上の新郎新婦に笑顔を向けたとき、それならそうと前もって言ってくれたらよかったのに・・・・・・とNさんにちらっと向けた非難の目、彼気付いたかしら?
でも心の準備がなかったことによって、美辞麗句で飾った空疎なものになりがちな祝辞が偽りのない心情を伝えることができたとすれば、よかったかも知れないと思っています。
私のスピーチが終わると同時に会場にはお開きのアナウンスと共に音楽が流れてきました。

    「♪夢があるから 頑張れる 地獄を見たら 強くなる
      お金だけが全てやない 信頼あっての 商いや
      オッペケペ オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポ
      オッペケペ オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポ♪」

私の顔は恥ずかしさで真っ赤になっていたに違いありません。「ナニワのオッペケペ」という去年私の出した(もちろん始めて)CDでしたから。私の歌詞に大沢みずほさんが曲をつけてくれたものです。みずほさんはシンクロスイミングの曲を手がけて、今やシンクロを通して世界的に有名な音楽家です。彼女の曲の調べをここでお聞かせできないのは少々残念なことですが・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結婚式は当事者の二人には言うまでもなく、送り出す両親にとっても、忘れることの出来ない一日です。披露宴のハイライト――ケーキカットや両親への花束贈呈は、もはや儀式化されたイベントになってしまったようですが、でもいつ見ても何度見ても心を打たれます。両親(とくに母親)の目に浮かぶ涙を見るとついもらい泣きしてしまいます。その日も私は新郎新婦の両母親の顔がいつまでも脳裏に残り、涙の語る思いを心の中にめぐらしていました。

お母さんの涙

お母さんの涙を集めて 空へほおったら
きっと お星さまになるでしょう
お母さんの涙を集めて 海へ流したら
きっと さくら貝になるでしょう
お母さんの涙を集めて 大地へこぼしたら
きっと かわいい花が咲くでしょう
お母さんの涙を 子供の心に注いだら
きっと かわいい子供が育つでしょう


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Nさん、Aさん、どうかお幸せに。
Nさんの二世の誕生と、その健やかな成長を心から願いながら・・・・・・


美しいウェディングドレス!!
新郎もブートニアがとてもステキでした!
この打掛の美しさは・・・
やはりここまでのグレードは・・・
ご親戚が京都の呉服屋さん・・・とか。
なるほど!!
私のテーブルの皆さまと。
このドレスも、一目であじさいの花の
イメージとわかりました。6月の花嫁
さんの最高の贅沢かも知れません。

                             平川 好子

                           
(2004年7月15日記)


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21.「凄い人は、やっぱりすごい!!」

先日、草野仁様からおいしいびわのお菓子を頂きました。いえ、何もそんなことを自慢するつもりはありません。・・・・・・
・・・・・・7,8年前のことですが、東京12チャンネルの番組「テレビの主役」という特番にださせてもらったことがあります。(関西ではテレビ大阪)初めて出版した本が話題になって、テレビに出演させてもらったのでした。
私の人生が紹介されたのですが、スタジオにはコメンテーターとして陣内貴美子さん、大和田伸也さんやピンクレディのMIEさん・・・といったテレビや映画で見る人たちがいらっしゃいました。録画も終わる寸前、司会者の草野さんの私へのコメントも終わったとき、私は、
「ひとことだけ言わせて頂いていいですか」
と言って、一歳の時に生き別れとなった実父に向かって話していました。
「お父さん、この世でお会いする事はありませんが、今度生まれ変わったらもう絶対に私の手を離さないで下さいね。今度生まれてきたら、お父さんに逢いたい!!」
私は公共の電波を通じて、この世では会うことのない実父に最後の別れを伝えたのです。風の便りで私に一目逢いたいと伝えてきている実父に!!
スタジオは騒然となり、カメラが再び回り始めました。お涙ちょうだいの「やらせ」ではないこの突然のハプニングにコメンテーターの方々の目にも涙が浮かんでいました。
・・・・・・そんな思いもあり「草野さんには、本当にご迷惑をおかけしました」
とのお詫びの気持ちで心ばかりのお品をお送りしたのがきっかけで、草野さんの方からもいろいろ美味しいものを送って頂けるようになったのです。
私も商売柄、有名な方々を知る機会も多く、その中には季節のご挨拶をさせていただく方もいらっしゃいます。

でも残念なことに、草野さんのような「お返しのこころ」を持った方はあまりいらっしゃいません。(決してお返しを頂きたいという意味ではありません)
社員の人たちと、びわのお菓子を頂きながら、私は話しました。
「草野さんは超ご多忙!まして全国にどれだけのお知り合いの方がいらっしゃることか、わかる?でもちゃんと私にまでこんなお返しをして下さる!!」
「お返しの心を忘れたらあかんよ。その心をなくしたら、どんなに立派な仕事ができても空しいものなんよ」
「感謝で終われる毎日をおくろうね・・・・・・と」

P.S
草野仁様は「世界・ふしぎ発見―土曜日4ch」、「ザ・ワイド―月〜金10ch」等々数多くテレビに出演されています。


                             平川 好子

                           
(2004年8月1日記)


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22.捨てていくことも修行

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 「ひとつの店で同じ時間を過ごし、苦楽をともにしていくことになっ
 たのも何かの縁。自分磨きの道場と思えば、店はすべてを教えて
 くれる宝庫。各人各様の人生の悲喜劇を共有できる空間でもある
 からや。」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


いつだったか、恭ちゃんと私が人生をしみじみ語り明かしたとき、明け方近くには二人ともぐでんぐでんに酔っ払っていた。そのとき彼女は、長い間誰にも言えなかった悲しい思い出をポツリと私に語った。それは彼女が二度と開けてはならなかった心の扉を開けた瞬間だった。
「自分の父のお葬式にね、ママ、お骨上げのときに、誰にも気づかれんように、まだ温もりのあるお骨を、そおっと、袂に入れて持って帰る悲しみ・・・・・・わかる? その辛さ、わかる?・・・・・・」
私は始めて知った恭ちゃんの涙の重さに言葉もなく、ただ恭ちゃんといっしょに泣くことしかできなかった。そして、彼女の流した涙を私の人生の中に受け入れていこうと思った。どんな宿命の重荷も、人との係わりの中で、苦楽を共にする時間によってしか解消することはできない。
他人への同情や共感の気持ちが、やがては自分自身の心の中を洗い流してくれることになるのだから。
 ひとつひとつ身につけていくことも修業であれば、ひとつひとつ捨てていくことも修業である。
バカ笑いでひとつ
大涙でひとつ
酔って叫んでまたひとつ
・・・・・・そしてそれもまた、二人の修業の日々であった。
 ひとつの店で同じ時間を過ごし、その中で苦楽を共にしていくことになったのも何らかの縁だ。この縁に感謝して、自分磨きの道場と思えば、店はすべてを教えてくれる宝庫である。なぜならば、長いスパンの中で必ず遭遇する各人各様の人生の悲喜劇を共有できる唯一の空間でもあるからだ。
 久君がはっぴ事件を起こしたとき、いちばん彼に気をつかってくれたのは恭ちゃんだった。何もわからない暴走族の哲ちゃんを、陰で支えてくれたのも恭ちゃんだった。そうした日々を通して、彼女は自分の境遇に対する見方を変えていった。不幸なのは境遇ではなく、それを不幸だと思う自分の心だと気づいたとき、心の鎧が少しずつほどけていき、薄紙を一枚一枚はがすように、何の装いもない彼女の素顔が見えてきた。彼女は今、細やかな気配りや、人生の辛苦を経て、重ねた齢からにじみ出てくるそのやさしさが、「頓珍館」という憩いの場にひとつまみの愛≠添えている。素顔のままの、「頓珍館のお母さん」として・・・・・・。
(2002年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊の一節より)

8月4日の暑い日、恭ちゃん(頓珍館のメンバー)のお母さんが他界されました。80歳で本当にお元気だったのに・・・と、おばちゃんの死がまだ実感できないでいます。
おばちゃんは、私の母(故・加賀リエ)の親友で、義父亡き後の店を母がきりもりしていた頃、店の番をしてくれたり、何かと母の手助けをして頂いたのです。その頃から私も「おばちゃん、おばちゃん」と気安く呼ぶようになっていました。
その頃の母は、1日の睡眠時間が3時間もないような猛烈な毎日でした。そんな母をひとり残して、私は修業とばかりに東京に行ったり、よそに勤めたりしたのですが、私のいない間、母にはおばちゃんの手助けが心身ともにどんなに大きな支えになっていたかが忍ばれます。
恭ちゃんが店に来てくれるようになったのも(S45年頃から)もちろんそんな関係があってのことです。
そのまた娘のマミちゃんが店に来て、母子三代にわたって正弁丹吾の歴史に足跡を記してくれたことを思うと、人の縁の不可思議な恩恵に感謝しないではいられません。
「困った事があったら何でも手伝ったげるよ」
いつも言ってくれたおばちゃんは、ほんの一年前までパブ・シーホースの早い時間の留守番役もやってくれて、「ワイドABC」(6ch、月〜金17:30〜)のテレビ取材の時など、
「80歳のホステスがいるんやてな」
「一度そのおばあちゃんホステスに会って見たいもんやな」
などと"粋なおばあちゃん"として、シーホースにこの世ならぬ遅咲きの花を添えてくれていたのでした。そんなおばちゃんですから、お通夜にも仕事を終えた従業員たちが次々とかけつけて、みんな思い思いにシャンソンを歌ったり、おばちゃんの好きだった歌謡曲を歌ったりして、正弁丹吾グループならではのお別れが出来ました。
おばちゃんの亡くなる一ヶ月前の七夕様の日、胃がんの手術後で意識も朦朧とした状態でした。そんな中で「千人くんよかったね。二人の幸せ祈ってます〜〜〜」と言われたそうです。私の長男が近く結婚する事を祝しての言葉でした。自分はもうすぐリエさん(私の母)に会うからちゃんと伝えておくからね。とおばちゃんの言葉がそんな風に感じられ、母にかわって孫に言ってくれた最後の言葉だと、有難く頂戴しました。核家族化していく中で、喜びも悲しみも共有しにくくなった時代に、家族ぐるみでおつきあいできた深い幸福。長い時間がじっくりと思いやりの心を育んでくれた古きよき時代。そんなひとつの時代が終わったんだなと、しみじみ知らされたおばちゃんの最期でした。

恭子さん、早苗ちゃん、文恵さん
(娘、孫、祖母)
お父さんのいない恭子さんが、多くの喜怒哀楽を共にした祖母の文恵さん!!
女1人では生きてゆけなかった戦中、戦後!!
この家族に女三代に日本の歴史を少し垣間見る事が!!
何でもが手に入り、自由に生きることが出来る現代の若い女性に残したい
私のメッセージの一貫でもあります。


                             平川 好子

                           
(2004年8月15日記)


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23.「こんな夫婦に・・・なれたら・・・」

お店に来て頂くお客様の中に、初老のご夫婦がいらっしゃいます。初めてお見えになったのは、二年前の夏に「麺料理ひら川」をオープンして間なしの頃だったと思います。
週に一度、必ずお二人そろってやって来られ、心からお食事を楽しんで下さいます。
奥さまの方は、食欲旺盛で見事な食べっぷり。ご主人は白ワインを飲みながら、にこやかに何かと妻に気をつかっていらっしゃる。
こんないいご主人を持った奥さまに対して、ちょっと妬けてしまいそうな、そんなご主人の献身ぶり。ところが、間もなくわかったことですが、奥さまはすべての記憶を奪われていたのです。(今・・・召し上がったものですら・・・覚えていらっしゃらない・・・)
ご主人が言葉少なに語られたことによると、今は池田にある施設に入っているが、週に1度くらいはおいしいものを食べさせてあげたいと、奥さまを施設から連れ出して当店まで来てくださっていたのです。
企業戦士として戦ってこられたご主人は、戦後の日本の男性がみんなそうだったように、その40年はほとんど家庭を顧みることができなかった長い歳月だったかも知れません。
そしてやっと定年を迎え、子供達も独立して離れて行った。
これからは二人で旅行もでき、夫婦水いらずの生活が始まる。・・・・・・
奥さまが突然病魔に犯されたのは、そんな矢先だったそうです。
これからの生活に旅行のスケジュールが省かれ、二人のそれまで共にかわした会話の全ての思い出がなくなりました。でもご主人は、今の自分に出来ることを見つけられた。おいしいものを食べている妻のそばで、ご自分もワインを飲みながら、3時間余り夫婦水入らずの食事のひとときを心から楽しんでいらっしゃる。そんな姿が、見るものにどんなに大きな感動を与えているか。
ご主人は少しもご存知ない。
だから尊いのです。
だから美しいのです。
必ず私たちにも訪れてくる事を知らせ、それに立ち向かっていく生き方を教えてくださっているのです。
限りある人生の中で、この老夫婦を当店にお迎え出来なくなる日もそのうちくるかもしれません。
だからこそ今、精一杯のおもてなしをしなくてはならない。
心からの喜びと感謝を込めて「またいらして下さいね」と言うとき、お元気な姿を一週間後に再び見せて下さることを願わずにはいられません。

                             平川 好子

                           
(2004年9月1日記)


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24.店長の顔になるまでに七年

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「毎日の接客によって、いままで見ようともしなかったものが見えて
 くる。お客さんが背負っている生活や、心の奥の喜び、悲しみまで。
 それが見えてこそ、商売のプロになれるんや」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 多香ちゃんは「サロン・ド・シーホース」の仕事のかたわら、週に二度はシャンソン教室の講師を続けた。また、一年に一度開くリサイタルやパリ祭に向けての熱心な活動は続いた。彼女にとってはこれが本業であり、「サロン・ド・シーホース」の方は今までの喫茶店やクラブに代わるアルバイト先のつもりだったかもしれない。そんな思いの微妙な食い違いは、オープン早々にも現れてきた。リサイタルの期日がせまってくると、彼女はレッスンの疲れと睡眠不足から、ふらふらの状態で店に出てくる。さすがに、親が死んでも舞台はあけられないという役者魂が、骨の髄までしみこんでいる彼女だから、どんなときにも店をあけたことはなかったが、そんな状態でこられると困るのだ。お客さんの話にうわの空で返事をする。場がしらけるのは当然で、無事にこなしたつもりのショータイムもまるで受けない。自尊心を傷つけられた彼女が、サロンの奥で密かに泣いている。そんな彼女の姿を見ると、私は無性に腹がたった。多香ちゃん、と私は言う。あなたのその涙、傲慢だと思わない? ステージに立って、歌って、すべてのお客さんが静かにきく。あなたにとってはそれが当たり前かもしれないけど、そう思うのなら、当たり前のことがしてもらえるだけの歌を歌いなさい。この前も、あなたたちの歌の音を設定している大学生のアルバイトのT君に言った。多香ちゃんたちは、マイクを持った瞬間から、歌い終えてマイクを置く三分間に命をかける。この一瞬の命がけの世界を陰で支えているのがあなたの仕事だ。だから君も命がけでやりなさい、と。そのときから彼は、試験前でふらふらの頭でやってきたときでさえ、たった一度のミスもしていない。そんなT君に恥ずかしいと思いなさい。・・・・・・
 私は、はっきり言って、多香ちゃんのシャンソンをかっていたのではない。宝塚で学んだ発声の基礎はしっかりできて、譜面どおりに完璧に歌っても、唄の心が伝わってこない。厳しいプロの世界で通用するはずもなく、いくら一途に努力しても、彼女がその道で生活ができなかった以上、それはプロとは言えない。辛いけれど、それを認めなければ、多香ちゃんは彼女自身の新たな第一歩は踏み出せない。今彼女に必要なのは、潔く過去と決別する勇気だった。シャンソンをこよなく愛し、歌い続けていくことはできるのだから。
 誰が何と言おうとも、彼女には輝きがある。ひとつのことに命をかけられる人の持っている輝きを彼女は持っている。この輝きは、彼女が生涯磨いていかなければならない宝石なのだ。そして多香ちゃんと私が夢中で描いた青写真――この小さなサロンこそが彼女の宝石を磨いていける場所ではないのか。
 サロンオープンの一年間、二葉弘子さん(往年の大女優)に店を手伝ってもらったが、その彼女もまた、宝塚OBとして後輩の多香ちゃんに慈愛の言葉をかけられた。たくさんの人が生活のために好きな芸を捨てなければならない現実の中で、女性スポンサーにめぐり会い、好きなシャンソンを毎日歌える空間(自分のお店)が与えられることなど、誰にでもくるチャンスではないのよ、と。
 多香ちゃんがそのことに気づいてくれるまでに七年の歳月が流れた。その間サロンはいろいろなことで、幾度も危機に直面した。けれどもその代償として、シャンソンがすべての多香ちゃんが、店長という大変な仕事をひとつひとつ覚えていけた時間であり、それを通して、彼女の足がしっかりと地についていった時間であった。また、生活があってシャンソンがある。生活の中からシャンソンが生まれてくる。――この単純でわかりきった真実を彼女にわからせてくれた時間でもあった。従業員への気配りや、毎日の接客を通して、彼女が今まで見ようともしなかったものが見えてきた。今日も同じ席に陣取って騒いでいるお客さんが、それぞれに背負っている生活や、心の奥の喜びや悲しみ・・・・・・まで。
 四年前に、シャンソン教室の講師をやめてから、多香ちゃんは「サロン」に全力を注いでいる。何かがふっ切れたように、ケラケラ笑い、晴れやかな顔で今日もショータイムのステージを勤める。シャンソンを歌える喜びと、その場所を与えられたことへの感謝が、彼女の歌から伝わってくる。それはもう今までのシャンソンではなく、まぎれもない多香ちゃんのシャンソンだ。

(2002年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊の一節より)

・・・・・・と、サロン・ド・シーホースを開店して16年の月日が。トップページのDMにも書かせて頂いたように2004.10.15をもって石橋店をクローズ。2004.10.25に池田店(池田市役所のすぐ東裏)をオープンさせて頂く事になりました。
この店も他店と同じように、多くのお客様とくり返し、くり返し"めぐり逢いのドラマ"を創り上げてきました。書き尽くせないエピソード・・・・・・琴線にふれるお話しに今日は少し触れてみたいと思います。

もの静かで凛としておられ、ご自身のことを表現されないあるお客様。いつもはカラオケなど唄われることもなく迎えた終戦記念日に突然「同期の桜」を唄われました。
 ♪貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く〜
 あれほど誓った その日も待たず 何故に死んだか 散ったのか〜
 はなればなれに 散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう♪
「このバカな戦争でどれだけ多くの、大切な友を、どれだけの大切な人々を亡くしたことか」とはき捨てるように。
その後、涙でグシュグシュのお顔で何分もだまったまま、その方も私たちも誰もしゃべらず・・・時が止まってしまいました。

「酒は泪か溜息か」を唄いながら・・・。
  ♪酒は涙か溜息か 悲しい恋の捨てどころ〜
   忘れたはずの かの人に 残る心を なんとしよう♪
涙をポロポロ流しながら・・・そんな恋をしたかね?
一生に一度の恋をするんだよ!
と語って下さり停年を迎えられた日のあるお客様。


中学校の時から家庭の事情で、生活に困りピンク産業でバイト。(信じられませんでしたが)高校時代には家にも入れてもらえずダンボールの中で寝ていた娘。(そんなことも本当にあるのですね)
そして、その頃には石橋にあるスナックのママ代理までしていた娘。我グループに入社した時にはもう高校も中退していて・・・。でも寿退社までの5年で我グループにはなくてはならない女性スタッフの一人に成長してくれました。
「もう二度とここに帰って来てはいけませんよ!!」
「もう今までのことは全て忘れて新しい道を歩んでね!!」と。
それ以来私の言葉を守り、風のように消え去りました。
サロン・ド・シーホースのRちゃん。


サロン・ド・シーホースはうちのグループの中でも特に、メンタルなスペース。星の数ほど多くの思い出を頂きました。
写真にありますように、スタッフにもそれぞれの歴史、それぞれの青春が。
この日々にカンパイ!!

太かった多香店長
細かったママ


ゆかた祭り、夏のハワイアン、クリスマスの仮装など
楽しい思い出がいっぱい!!



サロン・ド・シーホース16年!
お客様の・・・ワイワイ・・・ガヤガヤ・・・!
楽しかった・・・面白かったシーンの一コマ一コマ!
記念の数百枚の写真にも想い出がいっぱい!

                             平川 好子

                           
(2004年9月15日記)


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25.「オリンピック・シンクロに日本の美をみつけました」


暑かった夏もいつの間にか過ぎ、虫の集く夜には何となく人恋しく、お酒を飲みながらしんみり語り合いたい、そんな季節になりました。
今年の夏は記録的な暑さでしたが、暑かったのは気候だけではなかったようです。
オリンピックで日本中が熱くなった夏でもあり、私もギリシャに向けて熱い声援を送った一人でした。というのも、私の友人(大沢みずほさん)がシンクロの曲を手掛けていて、彼女のオリンピックでもありましたから。
大阪音大のピアノ科に学んだ彼女が、シンクロに出会い、アトランタ、シドニー、アテネの三度のオリンピックを通して、作曲家として戦ってきたこの12年間は、言うまでもなく彼女自身の戦いでもありました。
それはつまり、究極の日本の心をシンクロの世界でいかに表現できるかという挑戦であったように思います。日本の伝統の美しさを手さぐりする中で、彼女は見つけました。シンクロで彼女が作曲したオリジナル曲「歌舞伎」「阿波踊り」「武士道」「日本人形」・・・「忍者」「空手」「日本」に・・・。
それは彼女自身にとっての日本発見でもあったはずです。それがいかに困難な作業であったかは、彼女自身の内面の変貌で私には分かりました。内面ばかりか、最近多くの場面で着物を着出した・・・和服姿に彼女の変化を見る事が出来ます。いつしか心身ともに日本女性の美しさを身につけた彼女。
そして何よりも競技の本番で見せてくれた息を呑む演技、日本の伝統が凝縮されたあのドラマを見れば分かります。自分の生まれ育った国の文化を知るということは、自分自身を知るということでしょう。それは簡単にできることではありませんが、自分の中に隠れた美点を見つけ出して、磨いていく努力をすれば、必ず自分自身が輝いてくるということ。西欧の美しさを追うのではなく、日本の美しさを見つける事。洋楽器ではなく和楽器を。他人を真似るのではなく、自分の生き方を。
――この大切なことを、みずほさんは音楽を通じて、彼女のチャレンジを通して私たちに教えてくれたのです。
それからもうひとつ、武田さんや立花さんのようにもうシンクロから引退する選手たちに井村コーチがこれまでの労をねぎらって最後に言われた言葉。
「よい社会人になってください。皆様に支えられて今日があるという感謝の気持ちがあるなら、これからはどこかで、どなたかを支えてあげられる人間になってください」
人を指導する立場にいる者が学ばなければならない、とても重みのある素晴らしい言葉だと思いました。

アテネオリンピック祝賀会でこのような素晴らしい記念品を頂きました!

井村雅代コーチと
作曲家・大沢みずほさん。
間違いなく戦友・・・の美しい香りが・・・!

世界で第二位・・・という・・・
銀メダルを獲得した祝賀会。

水着を担当された"ミズノ社"さんの談。
水面に上った時の位置をそろえる為に
柄の場所は一人一人違ったとか!!大変!
今回で引退される立花、武田さん達に
ついで次の選手の紹介も!頑張れ!!  

この人が世界の立花さん!
静かな物腰に世界で戦った貫禄が!!
美しい涙で・・・より美しかった
武田さんと!やっぱりステキでした!

追伸
大沢みずほさんは、私が作った詩にも曲を付けて下さいました。
「ナニワのオッペケペ」――作詞・平川 好子  作曲・大沢 みずほ


                             平川 好子

                           
(2004年10月4日記)


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       かいこう、かいがん、めいもく
29.「邂逅、開眼、瞑目」

お客様の一人が亡くなられました。
サロン・ド・シーホースの16年前のオープン当初から来て下さったお客様で、まるで石橋の店のクローズとともに人生に幕を下ろされたような・・・そんな気がしてなりません。
七十五歳前で肺がんを患っておられたのに、微塵もそんなそぶりを見せずに、ある日から・・・パタッとお姿を見られなくなりました。
病状が悪化されたのだろうか。でもきっとまた来て下さる。新しいサロンオープンの案内状も差し上げて、絶対に来て下さる・・・と信じていた矢先の訃報でした。
私は多香ちゃんと育ちゃんを連れて通夜の席にかけつけ、心からのお別れをしてきました。ご家族のお許しを得た上で、多香ちゃんが亡きMさんの耳元でシャンソンの"ソレヤード"を歌い、


「ソレヤード」
♪もうすぐ終わるのね 二人の砂時計
さよならの足音が 静かに聞こえるわ〜
「この広い世界の片隅で めぐりあい・・・そして別れてゆく二人
でもさよならのかわりに 一言だけ言わせてください
あなたに逢えて 幸せでした」♪



育ちゃんが童謡の"赤とんぼ"を語りかけるように歌いました。

「赤とんぼ」
♪夕焼けこやけの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
山の畑の桑の実を 小籠に摘んだは いつの日か〜♪


よくご一緒に店に来られていた息子さん(現社長)が「おやじの大好きな歌だ。きっと喜ぶと思いますよ」と言って、小さな声で一緒に唱和されたのが印象的でした。
未亡人になられた奥様が、最後に、
「こんな素敵な歌で、お別れして頂き、ありがとうございます。本人も嬉しかったことでしょう。笑ってたでしょう」
と言って下さいました。やさしさとともに毅然とした一面もある奥様で、幸せな家庭生活が忍ばれるようでした。
生前、Mさんが口癖のように言われた言葉がありました。「大阪じゅうを探してもこんないい店はない」そして16年、茨木から石橋の店までご指定のタクシーでいつも来て下さっていました。(運転手さんはいつも2〜3時間待ち)
そんな有難いお客様に対して、私の方で出来る最高のサービスは何だろうか。私は私で知恵をしぼりました。でも決して無理をせず、自然体で心からお迎えすることができたからこそ、16年という長いお付き合いができたのだと思います。
昭和という激動の時代がつくったM会長のスケールの大きさ。優しさ。おおらかさ。
桜の花が散るように、花びらの一片一片に人生の言葉を残して逝かれました。
出来る事なら、新しいサロンをひと目見て頂きたかった。そんな無念さはありますが、M会長との思い出の一コマ一コマは、私達みんなの宝物です。
どうぞ安らかにお眠りくださいませ。


オープン一周年記念のテレカ!!
本当にみんな若〜〜〜い!!
ラストの日10/15のスナップより。
静かに幕を下ろしました。
みんなに見守られて!!
サロン・ド・シーホース16年にさようなら!
M会長さま・・・さようなら!


                             平川 好子

                           
(2004年12月1日記)


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30.『NHK"新撰組"によせて
       同級生!?山本太郎君、お疲れ様でした』

今年もあと2週間を残すばかりとなりました。
皆様方にもこの1年、色々な出来事がおありになったことと思います。
どのような年でございましたでしょうか?
12月12日をもってNHKの大河ドラマも、近藤勇の斬首刑で幕を閉じましたが、私が感銘を受けたのは、"新撰組"という固い信頼で結ばれた人間同士の結束の素晴らしさでした。いったんこうと思えば、何がなんでも貫き通す信念の強さ。絶対的な信頼。散りぎわの潔さ。でも今の私たちに、こんな生き方をしろと言われても無理ですよね。信念のために死んでもいいと思っても、そこまでの信念が持てない時代かもしれませんものね。日々情報の波にのまれて、価値観が毎日変わっていく中で、何を信じていいかわからない。ひとつのことにこだわっていると、いつの間にか取り残されておいてきぼりにされてしまう。不安といえば不安、空虚といえば、こんな空虚な時代に私たちは生きているのですから。
いくら生活が豊かになっても、人と人の心が通わなくなったら淋しい。信頼が持てなくなったら空しい。人を信じることのできるとき、それが一番美しい、一番尊い姿なんだ・・・とあの大河ドラマは最後に言っていたような気がしました。
ところで、ドラマの中で原田左之助役を演じていたのは、山本太郎君という私の長男の同級生でした。演劇界で助演男優賞をもらったりして、今や売り出し中の彼が、長男の結婚式のときに忙しい中を東京からかけつけてくれ、多くの学生時代からの想い出を語ってくれた後で、
「平は(長男の千人のこと)ぼくの親友です・・・・・・そして彼はとても骨太で僕の永遠のライバルです」
と。ご存知の方も多いでしょうが、あの"メロリンキュー"一つで単身東京に・・・そして今の地位を築き上げた人です。太郎君という人が、どんなに演劇という世界によって育てられ、大人になったか。この友への思いやりの言葉でよく分かります。
我家で食事をしたり、泊まりに来たりしていた頃の、二人の青春の一ページを母として懐かしく思い出しました。そんな彼が原田左之助の荒々しさの残る印象ある顔でメッセージを伝えてくれたのも、今年の大河ドラマにまつわる想い出になりました。
さて、「よしこ語録」も今回が今年最後になります。そこでひとつだけ伝えたいことがあります。正弁丹吾グループの中にも、20代の若者がたくさんいます。そんな彼らの生き方を毎日見ている私から、今を生きる若者たちに――

   『生命をかけられる仕事ですか・・・
        同じ釜の飯を食った友と・・・喜怒哀楽を共有出来る・・・
            覚悟はありますか!
               出逢ってしまった・・・覚悟が!』

こんな夢物語のようなことを、語り続けていられるグループでいたいと思っています。
『一座建立』の社訓のごとく、来年も一つのところに一つの心を集めて、毎日を迎えたいとも思っております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。
2005年が皆様にとりまして、良き年でありますように。
今年も1年間、このコーナーをご覧になって下さった皆様、本当にありがとうございました。
                                      合掌



長男曰く・・・!!
僕の青春の一ページに、山本太郎はかかせない友達です・・・と。
以前何年かぶりに空港で待ち合わせた時・・・
“太郎く〜〜〜ん”“おばちゃ〜〜〜ん”と抱き合った暖かさを私は忘れません。
ステキな大人に。ステキな俳優になって下さいね。
従業員たちの"キャー"で太郎君の今の人気を知りました。
頂いたサインは皆大切に持っていてくれると思います。
芸能人ではなく友の結婚式にでてくれた彼の一コマです。

                             平川 好子

                           
(2004年12月15日記)


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