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よし子ごろく

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31.あけましておめでとうございます。

謹 賀 新 年
あけましておめでとうございます。
新年を皆さまはどんな風に、過ごされてますか?
雪のお正月を迎えられた方、星の降る南国で迎えられた方・・・とそれぞれの地方で、それぞれの抱負を抱いていらっしゃることと思います。
どうぞ皆様、お一人お一人に、今年が幸多き年となりますように。
被災地ではお正月どころではないでしょうが・・・、一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。
今年は阪神大震災から10年目にあたる節目の年ですね。時間とともに忘れ去られる震災の傷跡にもう一度目を向け、私自身も生きることの意味を考え直してみなければならない年だと思っております。
明日の保障など、どこにもない一日一日を悔いのないように生きているかどうかを私自身も考えさせて頂ける機会にしたいとも思っております。
外食産業も大変な時代です。種々な重圧に、一日一日が存亡をかけた戦いです。
私の現代など海に漂っている小さな舟。大波がくれば木端微塵・・・というようなことになるかもしれませんが、毎日をコツコツできることを精いっぱいやっていくしかないと、決意を新たにしております。
こうしてホームページで皆さまへのメッセージを送れることの喜びを感じ、またメッセージを読んで下さる皆様の心の余裕に感謝も致しております。店にお客様が来られない様な恐ろしい事態や、世の中になれば、"よしこ語録"どころの話しではなくなりますものね。
生かされていることへの感謝をかみ締め、今年も頑張っていきますので、どうかこの一年よろしくお願い申し上げます。


2005年1月1日
叶ウ弁丹吾グループ
平川 好子

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32.スバラシキ"夫婦善哉"

お年を召したお客様が、こんな話をされました。
「わしも若い頃は道楽もんで、嫁はんをよう泣かしたが、わしも泣かされたもんや。あれは夏の頃やったが、わしは一週間、遊び回ったことがあった。女友達を何人も連れて、島巡りして、金もなくなったんでわしの家で飲みなおそうとみんなで帰った。遊びの仕上げや。みんなでどんちゃん騒ぎをやろうやないか、というわけや。
ところが帰ってみると、何とまぁ、家がも抜けのからになってるやないか!わしはたまげて、たまげて腰が抜ける程やった。みなの手前、カッコ悪いやら情けないやら・・・。家財道具もろとも、どこぞへ引越したとみえる。あのときほど女は怖い思うたことはないわ。もう遊びの仕上げどころの話しやない。わしは青うなって、さんざん嫁はんの行方を探し回った末、やっと三日後に引越先をつきとめた。それで、頭を下げて家に入れてもろうたのや。あのときの恐ろしさは、今思い出してもゾッとするで・・・」
側で聞いていた私たちは、おかしくて、おかしくて、笑い転げてました"夫婦善哉"のお話でも聞いているようで・・・。
たしかにあの頃は、男性の強かった時代。男の道楽に女は泣き、か弱き女性は涙をかくし、辛抱に辛抱を強いられた時代でした。
途方もない義父の道楽に泣かされた私の母もその一人です。
でも本当に女性は弱かったのでしょうか。その時代の女性には毅然としたものがありました。このお客様の嫁さんのように、いざとなったら無言で実行に移せる大胆な行動力をもっていました。傍若無人の男性におきゅうをすえれるだけの強さをもっていました。
果たして今の女性にそんな強さがあるでしょうか?・・・・・・
女性の社会進出が加速する一方の世の中で、女性はそれに比例する真の強さを身につけたのでしょうか。子供の進学問題で悩み、カウンセリングを受けたり・・・・・・育児ノイローゼで子供をコインロッカーに捨てたり、子供に虐待したり・・・・・・と一昔前には考えられもしなかった悩みをかかえて生きている私たち女性は、本当に強くなったのでしょうか。思えば思うほど心細くなってしまいます。
権利を主張して戦うだけが強さじゃない。そして男にとっても女にとっても優しさこそが大切なこと。
八十に近い大正生まれのお客様の話に私はそんな事を思いました。
最こんな事件の後も、そのお客様が大病して働けなくなった時には、その怖い嫁はんが昼夜働いて、ご主人をしっかり食べさせてあげたそうです。
お客様の「怖い嫁はんのお話」はうらを返せば、彼の嫁さんへののろけ話そのものとも言えるのですから。


この中にはこわい嫁はんはいらっしゃいませんが、
私はいつの日かお目にかかれればと思っております。
ご主人はどの方でしょう!?・・・・・・


                             平川 好子

                           
(2005年1月15日記)


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33.「御堂筋パレード!!優勝より」

今日(1/28)'05食博覧会・大阪第17回運営委員会が西区の区民センターで開催されました。ORAの田舞会長のお話によれば"今までより、より面白い食博になりそうです"と。
今回の食博の1号館から6号館までのイベントの中から少し御紹介させて頂きます。
※中国千年の陶都"景徳鎮"から世界最大級、高さ5メートルの「宴の塔」が来るそうです。(5号館)
※また、ビール王国ドイツの巨大ビアホールが来ます。
オクトーバーフェストで世界的に有名でもあり、大ジョッキ片手にみなさま本場のビールをお楽しみください。(3号館)
※そしてまた、韓国からはミュージカル"NANTA"が!!
4人のコックがキッチンのあらゆる道具を乱打にリズムを刻み、台詞がほとんどない、ノンバーバル(非言語)パフォーマンスです。
1日3回(30分)長蛇の列ができることと思います。(1号館)
ともあれ・・・去年の御堂筋パレードは我正弁丹吾グループから、よく歩ける元気印の美佳ちゃん、厚ちゃんが私の代理で参加してくれました。
「優勝するなんて、夢みたいです!!光栄で〜す」と報告。
「絶対私たちが参加させて頂いて良かったですよ。すごい長い時間歩いた気がしますヨ」とも。
♪♪歩け、歩け、と言われても、わたしゃ体重増えすぎて
     又ね、又ねと・・・何でもかんでもお断り!!
       冗談ぬきで、本気で今年は。乞うご期待体重!!笑♪♪
可愛いパレードの写真より
この写真も二人には良い記念になった事と。
12時に集合して、歩き終えた
時にはもう真暗でしたヨ。
大根、バナナ、ピーマン、トマト、
レモン、に見立てた大きな風船。
手が折れそうでした。
皆様、4/28〜5/8まで11日間、
インテックス大阪でお目にかかれますのを楽しみに。

                             平川 好子

                           
(2005年2月1日記)


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34.慰安旅行――たかが一泊、されど一泊――

今年もスキーとカニのシーズンになり、ここ数年慰安旅行として定着してきた神鍋スキー場に行ってきました。慰安旅行なんてもう古い。そんなことより、友達とショッピングして、帰って「冬のソナタ」を観たほうが、だんぜんリフレッシュになるわ。虫の好かん上司と酒を飲んで何がおもしろいの?・・・。そんな若者が増えてくる中で敢えて敢行する慰安旅行の意味。
それは去年、このコーナーでも言ったような気がします。繰り返しませんが、その前日の晩、あまりにも贅沢な生活を送っている私たちに、否応なく吹きつけてくる冷たく厳しい風を感じて背筋が震えました。
それは、ミンダナオ島(ルソン島)で暮すある家族の極貧生活を記録したドキュメントでした。マニラの広場で、幼い兄妹(兄は8歳、妹は6歳ぐらい)が10ペソ(日本円で20円)の買い物袋を売っているシーンから始まり、その悲惨さとけなげなさに目が離せなくなりました。彼らはそんな小さな子供なのに、そんなにしてためたお金を故郷へ送金しているのです。でないと、寝たきりの母親と結核で仕事の出来ない父親と二人の幼い弟たちが生きていけないのです。袋売りだけではとても足りません。兄はお腹をぺこぺこにすかせながら、20ペソになる荷物運びの仕事もプラスしてお金をかせぎます。故郷に帰りたい一心で貯めたお金がやっと2500ペソになりました。
兄妹は母さんのお土産にショールを買い、待ちに待った両親との再会を夢見て船に乗ります。(マニラ→ミンダナオ島、船で900km)持ちきれない程の荷物をいっぱい持って、それはきっと帰ることがないマニラを意味していたように思います。お母さんにもうすぐ逢える!
「アンガリン!アンガリン!」(すごいぞ!すごいぞ!もうすぐミンダナオ島だ!)
そして病床のお母さんと涙のご対面。夜抱き合って眠る母と子。
でも、つかの間の幸せは続きません。親子抱き合って泣いた翌日にはもう農作業と厳しい現実が待っていました。
数日後肺病の父から二人にマニラに帰ってくれないか・・・と。送金と口減らしの為に二人は決心をしました。三人の母子の泣きじゃくるシーンが画面に・・・。
兄が急に、
「お母さん!嫌だよ、行きたくないよ〜!」
誰もしゃべらない、悲しい長い沈黙。
兄が妹に一言。
「泣くな、行くぞ・・・!」
一家六人が生き延びていく為に、幼い兄妹は再びマニラへと旅立っていきます・・・・・・。
途中から私は涙がとまらなくなり、涙の意味を自分に問いかけたとき、恐ろしくなりました。この不幸な子供たちに寄せる、はなはだ身勝手な涙を流した翌日、私たちは神鍋でカニすきを囲んで、遊ぶのです。あの不幸な家族も、私たちには所詮対岸の火事にすぎないのです。でもこの兄妹たちに見た対岸の火事は、私の心を打ちました。子供たちの目の輝きが炎となって私の心に燃え移りました。
私たちは今、贅沢な生活に慣れ、それを当たり前のことのように甘受して日を送っています。
でもそうではないのです。決して当たり前のことではない。当たり前と受け取った時に、私たちの心から問いかけも同情も死んで、尊い感性を鈍らせてしまいます。この恐ろしさを常に意識していなければ、私たちの目にあの兄妹たちのような輝きは宿らない。
慰安旅行の前夜にたまたま観たテレビのドキュメンタリーは、私への、我グループ全員への、そして豊かな日本で暮らしている全ての日本人への警鐘だったのかもしれません。


この、たかが一日が、されど大切な一日だということ。
我社の社員だけでも私は、語り続けたいと思っています。
この何でもない雪合戦に、共に『一座建立』を共有する
同志として彼らの青春の一ページにしっかり根ざして欲しいと
思っています。

                             平川 好子

                           
(2005年2月15日記)


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35.三男の千磨の卒業式

三男の千麿の卒業式(中学)が近づいてきた。彼は式で答辞を読むことになったと言っていたが、いつも友達がきて騒いでいる。
「千麿、答辞の文章はもう書けたの?」
「それでお母さん、頼みがあんねん。一生に一度のお願い。きいてくれる?」
「何やの? そんなに改まって・・・・・・」
「あのな、卒業式でな・・・・・」
 私は千麿の一生に一度の頼みごとを聞いて、思わず吹き出してしまった。それは――卒業式で答辞を読むときがきて、「卒業生代表、平川千麿君」と呼ばれたときに、大声でかけ声をかけてほしいと言うのだ。会場に響き渡る声で、「平川!」っとね・・・・・・。
「あんた、本気で言うてんの?」
「ええ記念になるやんか」
 私は笑いがおさまってから考えてみた。彼はもともとひょうきんな子だから、少々のことでは驚かないが、まさかこんなことを思いつくとは・・・・・・だがそもそもそんな血は、私から受継いでいるのかもしれない。
「わかった。お母さん、死んだつもりで千麿の頼みきいてあげる。でもこんなこと、ほんまに一生に一度やで。ええな」
 ところが、卒業式の前の晩になって千麿がけろっとして言った。
「お母さんにお願いした前のことな、あれもうええわ」
私は何だか拍子抜けして、
「なんでやの?」
「今日、卒業式の練習があって・・・・・・めちゃ厳粛やねん・・・・・・」
「そう。そんならそのムードに合わせることも大切やね」
私は内心ほっとして、安堵の溜息がもれた。
千麿の卒業式はかくして何事もなく、粛々と進められて滞りなくすんだ。式が終わり、卒業生が父兄一同の見送りの拍手につつまれて会場を出て行く。卒業証書を手にした晴れやかな生徒たちを待つ父兄の列の前に、一人の卒業生がきた。千麿だ。と、そのときだった。ちょうど私の前にきた千麿は、右手を私のまん前に突き出して、一同をさっと見渡し、
「この人、僕のお母さん! かっこいいでしょ!」
言うと同時にくるくると三回転して、そして回れ右して列の中に紛れこんだ。
 一瞬の沈黙。唖然となった一同。しーんとした空気の中で、私の近くにおられたお母さんたちが、にこやかな顔でこう言われた。
「いいお子さんをお持ちで、お仕合せですね」
「どうしたら、あんな子に育つんですか」
「みんなの前で、あんなこと言ってくれる子供が今どきいるんですねぇ」
同級生のお母さんからもこんな言葉をいただけて、私は幸せだった。・・・・・・忘れられない子育ての一ページである。
(2001年の著書「ナニワ女の商いの道―商売なめたらあかんで―」講談社刊の一節より

上記の文章は、去年の3月15日号「子育ての一ページ」でも書かせて頂きましたが、千麿も三代目、平川千人と同じく「食べもんや」我正弁丹吾グループの後継者の一人となりそうでございます。
この千麿も高校の時に一年間、オーストラリアに留学し、その後京都外大で学んだ語学を生かして、今またフランスに行くことになりました。子供の人生観を見ていると世界は狭くなってきたと感じますが、料理の世界は学べば学ぶほど奥のない広大な世界です。おそらく本人もフランス料理の世界に飛び込んで、痛感するでしょうが伝統的な京料理に興味を示していた彼が、どんなことを学んで帰り、将来どんな花を咲かせてくれるか楽しみです。我グループも千麿の年頃に近い従業員が組織の中心として頑張ってくれており、できればこの機会に(千麿がヨーロッパにいる間に)現地に勉強に行ってもらいたいと考えています。子供の成長は親の喜びに違いありませんが、それでも世代交代の風にふっと淋しさも感じる今日この頃です。


京都外大を選びました理由のひとつは、
4、5年京都の料理を学んで欲しかったか
ら・・・。

パリへの旅立ちが決まった2月のある日。
彼の京都での5年間のしめくくりの料理
を頂きました。


祇園の「やげんぼり」を卒業。親方の
後藤様への(真ん中の方)ご恩は千麿は忘
れることはないでしょう・・・。
どうぞ、末永くよろしくお願い申し上げます。
素晴しい料理人「やげんぼり」の
後藤様に感謝!!


                             平川 好子

                           
(2005年3月3日記)


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36.小学校の頃からずっと親友で

長男・千人の小学校の頃からずっと親友で、
彼は酒の"楽市"という大所帯を背負う若き、
ビジネスマン!!
神の前に愛を誓う前田貞洋君。私の大親友"楽市"の社長、前田鐵雄氏。
ご夫妻の一人息子に対する優しさが、うれしさが、お二人の笑みに!!
大切に育てて来られた子供さんの末永きお幸せを、
心よりお祈り申し上げます。

長男の千人の結婚のことは、我正弁丹吾グループの三代目の結婚式だった事であり、このコーナーでもご報告させて頂きました。今度はその長男の友人が結婚されることになり、その結婚式で千人は、ほんの少しだけ早い先輩としてこんな祝福の言葉を・・・。
「これからの長い人生、どんな時にも一緒に酒が飲める友達でいたいと思います」
彼は酒屋の息子さんで、千人とは小学校時代からの一番仲のよい友達でした。二人が通った箕面自由学園は、私が本でも書いたように、思い出をたくさん頂いた学校です。
池田の五月山から六甲麻耶山まで九年間かけての山歩きや、運動会や遠足で私が千人に持たせたジャンボおにぎりのことは、きっと彼の思い出になっていることでしょう。
さてその結婚式で、千人が祝辞を述べる前に、牧師様が新しい旅立ちをする二人をこんな言葉で祝福されました。
「これから先、病める時も、健やかなる時も、いかなる時も励ましあって、よい家庭を築いていってください」
「こりゃまずいな。いろいろお祝いの言葉を考えてきたけれど、式での牧師様の言葉があまりにピッタリで、結局同じようなことを言ってしもた」
私は笑って、
「同じでもいいやないの。いちばん大事なことやものね」
そうですよね。この先、長い人生に必ずやってくる不幸や災難。そんな時こそ励まし、力を与えられる友達でいられること。これに勝る友達はないのですから。そしてそんな友達を一人でも多く作ることができれば、それこそが人生最高の幸福なのですから。
これからの長い人生で、利害関係抜きの交流がどんなに素晴らしいものか、千人たちにもやがて分かってくることでしょうが、そんな二人に私からもささやかな祝福の言葉を捧げたいと思います。
「楽しい時も、辛い時も金持ちになってもどんなに落ち込んだ時も、いついかなる時も、一緒にそばにいて飲める友達でいてくださいね。願わくば、悲しいお酒よりは、喜びのお酒を・・・いつまでも」

                             平川 好子

                           
(2005年3月13日記)


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37.2005年3月25日。

2005年3月25日。「自然と科学共生の未来へ」を掲げて、愛知万博が今日開幕しました。今度の万博では何と言っても「マンモス」が世間の話題をさらっているようですが、思えば35年前の大阪万博のときに一番人気を呼んだのは「月の石」でした。未知のものに対する人間の好奇心は今も昔も変わらないようです。
けれども今や「自然との共生」をテーマにしなければならないということは、それだけ自然破壊が進んだことで、言うまでもなく人間の生活がそれほど激変したことになるのでしょう。
私にとりまして35年前の大阪万博(1970年)は自社ビルを建てて、独立した年でもありました。朝から夜中まで仕事仕事にあけくれ、万博会場に足を運ぶ時間もない毎日でした。でもお店にきてくださるお客様の口を通して、毎日万博へ行っているような気がしたものです。ビジネスの面でも、世の中のムードの面でも、これからどんどん良くなっていくという・・・。
あの頃には夢がありました。未来の輝きに向かって、みんながひとつの夢を共有していたように思うのです。そんな気がするのも、私も当時23歳青春の真っ只中にいた若さのせいだったかもしれませんが・・・。
豊かになりすぎることの怖さ。ひとつのパンを三人で分けあって食べたのに、そんな必要がなくなると、ひとつの味を共有することの楽しさはなくなり、分かち合う尊い精神を無くします。そうしてだんだん貧しくなった私たちの心が、エゴを増長させ、大きなテロを生み、美しい自然を破壊してきたのでしょう。
たかが35年の歳月なのに、あるいは敗戦からたかが60年が過ぎたばかりなのに、こんなにも変わってきた今を思うと、50年後の私たちを待っているのは、ロボットいっぱいの人の住みにくい地球になっているかも・・・と本気で考えてしまいます。
時間ができれば、私も開催中に一度は行ってみたいと思いますが、真っ先に見てみたいのは「マンモス」ではなく「宇宙館」というものです。聞くと、そこでは広大な宇宙から見た地球の姿が、いろいろな角度から見れるとのことです。無数の星の中でも奇跡的な美しさを持っている唯一の地球。そこにはもちろん国境もなく、紛争や戦争のない私たちを苦しめているあらゆる、みにくさなど  想像することも出来ない、美しいかけがえのない地球の姿が見れることでしょう。


1970年(昭和45年)からしばらく
たった頃の正弁丹吾ビル!!
この後、1Fが喫茶ウィングに。
2Fがパブ・シーホースに。
3Fがシーホースにと・・・。
そして現在、この自社ビルも、
麺料理ひら川
頓珍館・駅前店
に、変わりました。
大阪万博の私の写真は一枚もありま
せんでした。それだけ忙しい日々だった
のでしょうね!!


元板前のごーちゃんと。
オープンの日東京からお祝いに。
1970年(昭和45年)が私の店
"たんご"がスタート!
全て杉や天然木を使っての店内は
流石・・・京都の大工さんという
感じで、大工さんの心意気も感じ
とれた店だったと思っています。



                             平川 好子

                           
(2005年4月1日記)


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38.いよいよ食博開催!!

4月28日いよいよ始まります

四年に一度の食の祭典、大阪食博覧会がまた巡って参りました。
今回は新しい企画の一つとして「テーブルコーディネート」の入選作品(12点)が 3号館でおひろめされます。12の狭き門の名誉を得んと、私もチャレンジしてみたのですが、みごとに落選致しました。ここに私の二作品を披露するのは、皆様が会場で素晴らしい入選作をご覧になった時に、私の駄作と比較してみられるのも面白いかもしれない。また、ご意見やご批評を聞かせて頂き、次なるチャレンジに向けての発奮材料になればと思ってのことです。
前にも落選また落選・・・と落選続きでございますが、こんなことで落ち込んだりしないのが、私の唯一の取り柄でございますから(笑)
今を盛りの桜も散って、今度はつつじの花が咲き始める四月下旬から五月にかけて、(4/28〜5/8)ゴールデンウィークを挟んで開催される食博の祭典(南港インテックス大阪)で、もしかしたらお目にかかれることを楽しみに・・・。



                             平川 好子

                           
(2005年4月17日記)


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39.やったぞ、哲ちゃん!?

我グループでよく話題になる"元暴走族・哲次くん"が結婚致しました。
お母さんがそうだったように"家に帰ったらちゃんと待っていてくれる人"つまり、専業主婦が彼のお嫁さんの第一希望。"お帰りなさい"と自分の為に掃除、洗濯、お料理をして待っていてくれる人・・・でした。
贅沢をそんなに求めるのではなく、二人でいる時間を大切にが彼のモットーでした。元暴走族・・・の響きからくる荒れたもの、社会から少し浮いたもの、〜〜〜〜〜、〜〜〜〜〜、〜〜〜〜〜、そういうものは全てなく、昔・・・こんな男がいたヨね、といった感じです。
良い意味で古風・・・どうしたらあんなに若い頃、やんちゃをしていた男の子がこんなに、ドッカリ落ち着くのだろうかとつくづく思うのです。
そんなに高額のお給料が出せているわけでもないのに、なぜかリッチなのです。なぜかゆったりしているのです。
若者の新しい型を見る気がします。共稼ぎ当然と考えて来た私の30年に、こんな結婚の型もあるんだと、面白く見せて頂きました。人はそれぞれ私なんか星が違う位の別世界での結婚生活ですが、又私の出逢えた人生の妙味・・・毎日多くのお客様に出逢い学ばせて頂けた現実も、捨てがたい宝であります。
結果"人生にこれは正しいはない"が結論かと思います。これから結婚しようと思っている人々に本当にどう生きても一緒。どうぞ、しっかり学び、好きなように。短い人生を悔いのないように。


哲ちゃんの理想の女性です…と。
このドレスも彼女のお母さんの手作りのレース編みでした。
何でも買える時代に毎日毎日、寝ないで編まれたウェディングドレス。
これ以上のものはないと感じました。


この仲間がいて哲ちゃんの今までと、これからがある。
お兄さんから「店休んでこんなに仲間に来てもらって弟は幸せもんです」
と聞いたとき、良かったね、この仲間がいてと思いました。
これからもこの仲間を大切にと、願わずにはいられません。
(念の為…店を休んでまで、頓珍館のメンバーが参加させて頂いたのは
特例ですから…笑笑笑)


トップスピーチをさせて頂いた結婚式は初めてです。
しかし、それだけ新郎との深い絆と年月に感動も致しました。
二人の変わらない幸せを心より祈ります。



                             平川 好子

                           
(2005年5月1日記)


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40.おかげさまで、2005年食博が終わりました

4年に一度の大阪での食博覧会が5月8日何事もなく、68万人以上のお客様にご来場頂き、終宴させて頂きました。
今回のこの「宴の塔」も、「景徳鎮」で焼いて会場に設置致しました。
5mの塔です。オープニングセレモニーとして中国から陶器で出来た楽器の生演奏をする為に、美しい女性達がきてくれました。本当に全て陶器のベルや笛で奏でる音色は素晴らしいものでした。
韓国のNANTAも1号館のお手伝いが当たっていた関係で(副館長)、1日中当番のメリット??で観ることが出来ました。2時間も毎回並んで整理券待ちの行列が・・・。いや、本当に主催者の私がニューヨークの人気を知らず、毎回2時間並んで待って、1時間席とりの列に合計3時間も並ぶ人々を見て・・・あらためて、ミュージカルNANTAの凄さを知りました。
他にも、奥村彪生先生の「麺百選」もとても面白かったです。最終日の打ち上げパーティで奥村先生曰く、
「マニアに一つサンプル取られてしもうたわ」
「うそ、先生どうなさるのですか?」と私。
「又、造るがな・・・ハッハッハ」
奥村先生と私は、桂三枝さんの文化人劇を始め、芝居もサンケイホール、グランド花月等、4回もご一緒させて頂いた・・・なかよしグループの川柳仲間!楽しいオープニングセレモニーでした。


毎回ドキドキ!
さぁ始まります、2005食博!!
陶器のベルが・・・
陶器の笛が・・・
本当に美しい音色でした。
この5mの宴の塔の一枚一枚の絵は・・・
世界の国の晩餐の様子が焼かれています。
伝承料理研究家の奥村彪生先生と
長いお付き合いからとはいえ、
いつも会話の楽しさはテレビと同じ!!
こんな麺が先生のコーディネートで
100作品並びました。麺百選で、
多くの地域の面白い麺の数々・・・
日本の国の広さをつくづく感じました。

                             平川 好子

                           
(2005年5月15日記)


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41.先日

先日、箕面自由学園の創立80周年記念PTA講演会で講演させて頂きました。
子供達がお世話さまになった頃の矢内校長先生、幼稚園の上岡園長には数多くのお教えを頂きました。ある子が幼稚園時代"かわいい、かわいい"と世話をしていたうさぎさん、抱きしめた力が強すぎて・・・死んでしまいました。
3才の園児でもびっくりしたのでしょう。おままごとセットの大鍋にうさぎさんを入れたまま横に座っていたらしいのです。園は夜遅くまで大騒ぎになりました。
その時園長さんが、
「平川さん、子供には一度は通らないといけない道があります。
叱らないで下さいね。その内、かわいがる事の意味・力・etc多くの事を一人で学んでゆきます。親が口出しをしないほど、子供は自分の世界をしっかり持てるでしょう」
と、本当に素晴らしい園長さんだと今は亡きその方の事を時々懐かしく思い出させて頂いております。
その頃園長さんの依頼で書かせて頂いたPTAとしての今・・・子育てについての文章、講演前にひもといてみました。
子供が30才になり20年以上も前のこの文章を懐かしく読み返し、当日自由学園に伺いました。

********************* KOKOROの宝石箱 ************************

ずっと昔のことだった気もするし、つい最近のことだったようにも思う。花がいっぱい咲いていて、おいしそうな食べ物が沢山あった。ステキな洋服を着たお母さんが、まるで外国の絵葉書に出てきそうなかわいい家の庭で、咲き乱れた花の中で紅茶を飲んでいる。可愛いとても賢そうな子供達が、きれいな服を着て学校から帰ってくる。夕食はお皿に山盛りの肉!!焼き肉パーティー!!やがてお父さんも帰ってきて、今まさに楽しい食事タイム。そんな家庭の様子がすぐ目の前に浮かぶ位まわりは平和色になった。
平和、平和色、しあわせ、しあわせ色・・・みんな、それぞれの、しあわせ色を持ち、そのカラーを生み出す為に毎日生活している・・・
私はきれいな洋服を着て出かけるとき、最後に確かめたいことが一つある・・・。
それはKOKOROの中にちゃんと宝石をはめたか・・・ということ。
いっぱい、いっぱい幸せにみんななりたい、なればいい。でも、でも、でも、ちょっと手を伸ばせば届きそうな近い昔に、朝食べるものを探し歩いた人たちがいたことを・・・せめて今のしあわせは、決して自分だけで作り上げたものではない、と私は子供たちに教えたい。子供の心の宝石箱に、いつの日か母に教えられた、しあわせ色の宝石がピカピカ輝いている・・・。
私はこんなとりとめもないことを、よく朝まで考えて涙がポロポロこぼれる。
気がつくと長男(千人)がベッドのそばで苦笑いして立っている。
どうしたん
かずとが大きくなって、いっぱい幸せになった夢見てうれし泣きしててんよ
長男がゴソゴソ私の足の方からもぐり込んでくる。
私のしあわせ色は、こんな色。
箕面自由学園幼稚園PTA新聞「澪標―みおつくし―」より
昭和60年7月18日 平川好子記

**********************************************************************
今はただ、ただ、この子が30歳になり、当社の自社ビルで「麺料理ひら川」をオープンするまでになれた事に、感謝!感謝!!

懐かしい学園の坂を昇りながら、一人ももう我が家にいない子供達を思い
兄弟喧嘩をしていたあの頃に戻れない30年近い月日を感じました。

子供達の恩師も、ソロソロご定年になられることでしょう。
今度返って来たら母校を訪ねるようにアドバイスしてみようと思いました。

                             平川 好子

                           
(2005年6月1日記)


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42.能勢の道の駅・くりの郷でしばしのスローライフ

先日、用があって能勢に行ってきました。池田から車で30分くらいの所に、こんなにも、と思う程自然が残っているのには驚きました。くりの郷(道の駅)はいろんな種類の野菜が売られていて、地元の野菜の見事さにびっくり。一緒に行った美佳ちゃんが、丸々太った長さ80cmもの大根に目を止めて、「すごい!これがたった170円なの」それから、ぷっと吹き出して言ったものです。「大根足ってよく言ったものですね、よく似てる!」確かにこんな大根はスーパーではお目にかかれません。そのぶかっこうさが珍しく、うれしいものです。昔は、なすもきゅうりも姿形は美しくなかったけれど、それぞれに個性豊かなものばかりでした。左に右に曲がりくねって、大きさも形も規格品なんてまるで無視。野生児そのものだった野菜たち。姿形も味もよく・・・という私たちの欲望を満たしてくれるために、並々ならぬご苦労はあったのでしょうが、いったいあの野生児たちはどこにいってしまったのでしょうか。
スローフードという言葉が言われ出してもう随分になります。食生活をすさまじい勢いで変えてゆくファーストフードに対する警鐘として生まれた言葉のようですが、その言わんとする所は、もっとゆっくり食事をしましょう、というのではなく、その土地土地でとれるものを使った料理を、ということです。
私たちは南国で生まれれば、南の土地で出来るものを食べるのが一番よく、自然の恵みを自然に受け入れる生活が最上だということです。それぞれの土地に生を受けた私たちが、その土地で育ったものを大地に感謝して食べていくことが、健康を保つ秘訣なのです。聞いた話ですが、北国に育った人が、南国で取れるバナナなどを毎日食べ続けていると、健康を害して死ぬとか?
また、私たちの歯には鬼歯(糸切り歯)が上下二本はえていて、これは肉を噛むために授かった歯で、肉食動物のように多くないのは、肉は週に一度か二度食べれば十分、ということなのだそうです。あとは野菜と穀物を食べるのに都合のいい歯並びになっているのだから、そのような食生活が自然の理に叶っているとのことです。
食べものだけでなく、通り道にはいろんな種類の花々が売られていて、色とりどりの旬の花が季節を感じさせてくれました。それが無造作にバケツにどっとつけてあり、何とこれも一束が100円ぐらいという安さなのにびっくりでした。そのとき、能勢の辺りには蛍が飛ぶという話を聞き、急に見たくなって、今日(12日)再び行って見ました。9時頃で少し肌寒い夜でした。ほんとかな、と思いながら、川沿いの道を上流の方にどんどん登っていくと、本当にいましたよ、ホタルが!蛍の飛ぶ光の筋が流れ星のように目の前を流れるのを目にしたときは、本当に感動しました。夢の世界にきているようで。遠い遠い昔、電灯もなかった古代人の目に、漆黒(しっこく)の闇の中に飛び交う蛍の光が、どんなに美しく、同時にどんなに不気味に見えたことでしょう。闇と光の幻想が生み出した数々の伝説・・・。
貧しい父親が何も買ってやれない娘のために、蛍をいっぱい取ってきて、娘の寝ている蚊帳の中に放ってやった。蛍は一晩中娘の蚊帳の中で光を放ちながら乱舞して、朝になるとその死がいが淋しかった・・・。誰のどんな小説だったか忘れてしまいましたが、そんな情景も思い出して私は川べりにたたずんでいました。北斗七星が頭上に輝き、日常から離れた別世界にすっぽり包まれたまま、何ともいえない贅沢なひとときでした。

追伸
この「蛍がり」は絶対に二人ではお勧めできません(笑)
四人で行った私も、とても怖い場所がいっぱいありました。
ジェラシーで申し上げているわけではございませんが(笑)若いカップルのデートには少しスリリングかもしれません。


本当に元気な野菜や能勢ならではの物産に
近くで見つけた初夏でした。

入口で見つけたなんとも可愛い
"くりさん"!!
  
後ろは府民牧場!!
ステキでした。

                             平川 好子

                           
(2005年6月15日記)


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43.『初夏の茶会に参加して』

2週間の休暇をとって、フランスから帰国した三男も一緒に初夏の茶会を楽しみました。茶会の経験は娘時代に一度あるだけで、日本の文化や歴史をじっくり学んでこれなかったという常日頃の思いもあり、その方面の教育を親から全く受けていない子供ともども、今回の機会に恵まれて嬉しさもひとしおでした。
茶会の刻はゆっくり、ゆったりと、不思議なものでその空間を漂う日本的な美の伝統の香りが心の中に浸透してくるのか、ささくれていた気持ちが知らず知らずにいやされてくるのです。作法や形式の美しさを通して、そこはかとなく伝わってくる"奥ゆかしさ"は私たちの先祖が古来守り続けてきた日本人の心の美しさなのです。私は今回の茶会で、本当のおもてなしの心の神髄に、触れることができた思いがしました。それも年の功を重ねてきたおかげなのか、娘時代の茶会では気づき得なかったものでした。
面白かったのは、ご主人(亭主)が燗鍋(かんなべ)という酒器で、朱塗りの盃に酒をついでくださった後、さりげなく蓋が陶器に(染付け)変わりました。
※燗鍋とは、お湯を沸かす鉄瓶の小型のようなものでした。
と同時にご主人がおもむろに、「お預け徳利でございます」という耳慣れない言葉を発されました。"これからはめいめいで、ご自由にお楽しみ下さい"という意味で、器の蓋が変わったのはその合図だったわけです。趣のあるとっくりが次から次に表われ、ご主人がその度についで下さった後で、口にされる「おあづけとっくり」という言葉に聞き惚れながら、私は思ったものです。うちの店でもこの言葉を拝借してみてはどうだろう。"おひとつどうぞ"と一杯目をおつぎしてから、さり気なく粛々(しゅくしゅく)と「お預け徳利でございます」と・・・(笑)。お客様は10人が10人、ポカンとなさって「なんやて?」の言葉が返ってくるでしょうけれど、こんな風流なお遊びごころもちょっぴり粋だとお思いになりませんか。何と味のある言葉だとお思いになりませんか。
ところで、茶会の席に三男は和服を着たいと申しました。息子の旅立ちの折にJCの先輩(中川氏ご夫妻)から結構な着物と袴を頂戴しましたが、残念ながら子供はフランスに持って行ってしまったので、その日に着ることは出来ませんでした。何かないかと探していると、物置にしまいこんだ義父の着物と袴が見つかりました。義父がおめでたいときに着ていた侶の晴着で、半世紀以上も誰にも着られることなく眠りこんでいた義父の形見でした。だいぶん痛みがきていて、袴などは糸が弱って、気を付けていても破れそうです。ビリビリバリバリと体の動きにつれて大仰な音を立て、実際お茶が終わる頃には腰からふくらはぎの所までが破れて惨憺(さんたん)たる姿になっていました。それでも喜んで着てくれた子供の気持ちがうれしいじゃありませんか。息子の後姿に義父の姿が重なり、先代の義父の顔が偲ばれてきたのも久しぶりのことでした。二代目を抜かして三代目にあたる息子の体に、正弁丹吾の歴史がしっかりとまとっている。義父と孫が、生前一度も顔を見たことのない二人が、渾然(こんぜん)と一体になっている。その姿を見て私が胸の中に呟いていたのは"おかげさま"という言葉。誰にとも限定できない、だからこそ全てに対する心からの感謝をこめて言うときの、日本にかしかない一番美しい日本語の一句でした。


露地の姫釈羅(ひめしゃら、夏椿とも言う)をバックに・・・
先輩の帯は羅(ら)だそうです。
粋な文化人に拝見した事のない和服の美しさを!!
後ろにかかるお軸(じく)には、
「夏雲多奇峰」"夏の雲・奇峰多し"
と読むそうです。
夏の大空の雲のすごい力を感じます。
茶人の季節感の素晴らしさに
感服致しました。
長男・嫁・三男・・・
いつもバタバタしている現在の
若者達!
こんなチャンスに恵まれ、普段の
生活を客観視してみるのも面白い
かもと・・・!

                             平川 好子

                           
(2005年7月1日記)


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44.こんな美味しい"マカロン"食べたことな〜〜〜い!!

先日東京で勉強会があり、久しぶりに活気あふれる東京の熱風に吹かれてきました。
何とっても東京は花の都、町を歩くだけでいろんなものに刺激されますが、六本木ヒルズでの昼食は、私にとって久々に味わえた心地よい刺激のひとつでした。
ある作家がこんなことを言っておられます。物を書くようになってから、読者のほんとうの楽しさを忘れてしまった。他人の小説を読んでも、
自分だったらこんな風にかくのにとか、"こんな文章は絶対にかけない"とかいちいち批評眼が働いて、小説の世界に無心に遊べなくなった。何ともさもしい作家根性である・・・と。これは私たち食べもん屋にも言えることで、よその店に行くと、出される料理(器も含めて)がすべて勉強の材料に見えてきます。従業員を連れての食べ歩きは勉強そのものです。どんなに美味しい料理でも一口だけ、次々にお店を回って、お腹は空くいっぽう。
「お腹空いたねぇ」と言い合いながら、何と因果な仕事だろうと笑ってしまいます。
・・・・・・というわけで、その日は食べもん屋のおかみ根性をいっさい捨て、無条件で食事を楽しむことにしました。アトリエ・ド・ジョエル ロブションという名前の高級フランス料理店。たっぷり時間をかけてのコース料理は、私の心意気に十分答えてくれるだけの粋な料理ばかりでした。さすがにフランス。一回の食事にも人生最高の楽しみを求めるフランス人が作り上げた美味風雅な料理の数々。その味をお伝えできないのは残念ですが、どうか下の写真でお楽しみ下さい。
この店の料理長は、須賀洋介さんという日本人でした。若くてジョエル ロブションさんから六本木ヒルズ店をまかされたというだけに、かなりのフランス通で、聞くと彼のお父様も名古屋でフランス料理店を出していらっしゃるそうです。彼の料理人としての目の輝き、スピードetc・・・大昔に見た職人さんと同じものを感じました。和食、洋食、みんな同じですよね。所で皆様は「マカロン」というお菓子をご存知ですか?私は何度か(本場のフランスでも日本のホテルでも)頂いたことのあるお菓子です。が、六本木ヒルズ店でお土産に買って帰った「マカロン」を口にしてびっくり!これが同じマカロンだろうかと思うほどおいしく、まったく別のお菓子を食べているようでした。所(店)変われば品変わる、ということでしょうか。もっと別の所にはもっと違った味の、もっとおいしいマカロンがあるのでは?・・・
ひょっとしてご存知の方、おいしいマカロンを教えて下さい。
16世紀にイタリアのフィレンツェからアンリ2世のもとに嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシス姫は、フランスに数々のお菓子を伝えましたが、その一つがマカロンです。このお菓子は、イタリアがルーツですがフランスで花開きました。基本となる材料はアーモンドパウダー、砂糖、卵白というシンプルなものですが、フランスの各地方で様々な種類のマカロンが誕生しました。
パリのマカロン「マカロン・パリジェンヌ」は、都会仕立てのふっくらとしてスベスベの表面が特徴。しかも、ピエ「足」と呼ばれるフリルまでついています。他の地方のマカロンは卵白を泡立てませんが、パリのマカロンは卵白に砂糖を加えて泡立てるから、仕上がりがふっくらとするのです。また、二つのマカロンを合わせて、間にバタークリームを挟むのも特色。バニラやフランボワーズ(木苺)、モカなど種類も豊富で、どことなくパリのお洒落で都会的な雰囲気を漂わせています。
――――インターネットで調べましたら、このような文章が出てきました。
美しい、本当に、
きれいなデザートでした。 
このグリーンの点々の数まで
決まっているとか。
スポイドのようなもので、
一つずつ点を入れておられました。
六本木ヒルズのアトリエ・ド・
ジョエルロブションでの
須賀洋介さんと、大切にしたい写真です。
暗〜〜〜い写真ですが・・・
恵比寿ガーデンのシャトーレスト
ランの前で!!
まるで外国に来たような素晴らしい
スペースでした。

                             平川 好子

                           
(2005年7月17日記)


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45.頓珍館で開かれた落語会

先日、"市立池田病院落語会"なるものが当店、"頓珍館"で行われました。
笑いが健康にいいのは医学的にも証明済み。「落語を聴いてもっと元気になりましょう」市立池田病院のM先生のこんな呼びかけで実現した集いでした。
「ちょっと和気藹々の気楽な会にしたいのですが」
「まかせてください。でも頓珍館・奥座敷では2、30名様ぐらいまで・・・、隣りにある70名様までOKの頓珍館・本館でやられませんか。その日はいっぱい空いてますから」
「いや、仕事がら全員参加というわけには参りませんから」
「わかりました」
・・・というわけで、M先生が何度も当店に足を運ばれ、落語家の座る高座の場所やら、お料理の献立やらと心弾む打ち合わせの中で、普段は少々いかめしいM先生の別の顔、名プロデューサーぶりをお見受けできたのも楽しい経験でした。
当日は落語家の方が早めに来られ、高座作りに大わらわ。ビールケースを積み上げ、私が自宅から持ってきた風呂ぶたを乗せ、その上に特大の分厚い座布団を敷いて、目の覚めるような緋毛氈(ひもうせん)をかぶせました。
「えらい高い高座でんなぁ
「あまり大きく動かないよう、お願いしますね」
「ガムテープで止めたビールケース、震度一弱でももちまへんで。噺しの最中に、ぐらぐらどっしゃーん」
「そうなればそうで、おもしろいやありませんか。きっと一生の思い出になりますわ」
・・・そんな会話を交わしながら、私はふっと思い出しました。"正弁丹吾"にテレビを据え付けた時、プロレス中継を見に来るお客さんで、店がにわか小劇場に変わった日のことを。テーブルも椅子もとっぱらった空間にはあふれ返るお客さん。野次と力道山への声援で店内は熱気むんむん。・・・・・・
あれから半世紀すぎた今、私は義父と同じことをやっている!もちろんテレビを商売に利用した義父と、今回私がお引き受けした落語会は、目的も動機も違いますが、それにしても一抹の感慨を覚えます。歴史はいつの日か再び巡ってくるのだと。
さて、その日の落語会は言うまでもなく大盛況でした。にわか高座に座られた将軍様は、桂二楽、ちょうばの若手噺家のお二人で、二楽さんは、桂米二師匠のいちばん弟子、H15年9月に、桂米二不定期落語会で初舞台をふまれた方。
ちょうばさんは、桂ざこば師匠の6番弟子で、毎日テレビ土曜日放送の「せやねん」にレポーターとしても活躍しておられます。
お二人とも若々しく、大笑いにつつまれた"頓珍館"は半世紀前の"正弁丹吾"さながらのにぎわいでした。
お医者様と看護婦さんたちの、白衣姿とはまた違った素顔に笑いがはじけ、どなたのお顔を見てもまんまるのお月様のようでした。
そうです。病人に元気を差し上げなければならないお医者様や看護婦さんたちにとって、大事なのは自分たちが元気になること・・・"そんなお手伝いができたこと"高座作りの楽しさを経験できたこと"また皆さんに自慢できるお話が一つ増えました。このように若手芸人さんは日々、努力していらっしゃるんですネ。


この掘りごたつ形式のスペースで、
前の人は首がだるくなる位の角度だった事でしょう。
この姿に池田で三番目にテレビを買って、
プロレス中継を!!
懐かしき昭和30年代を思い出しました。
居酒屋での落語会。企画された先生に感謝!!
私達も楽しかったです。ありがとうございました!!

                             平川 好子

                           
(2005年8月1日記)


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