よし子ごろく |
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46.北川選手ってどんな人! |
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プロ野球シーズンもたけなわで、店に来られるお客様の話題にも野球の事で盛り上がります。今年の阪神タイガースや、かつてイチロー選手のいたオリックスが日本一になった年や、地元チームが好調の年などは特に・・・。 野球オンチの私は、お客様の話についていけず、"あの三振ゲッツーはないで"だの"あのエンドランはまずかったな"などと言われても、何のことやらちんぷんかんぷん。"そうなんですか"はぁ"・・・と聞いて差し上げるのが関の山。十分な受け答えができないで申し訳ないのですが、去年は何やかやと野球の話題が社会面で毎日のように報道され、イチロー選手の大リーグ新記録が号外になるなど、野球というスポーツが私たちの日常生活に深く関わっていることを知らされました。最近お店によく来て頂くお客様に、プロ野球選手の方がいらっしゃいます。北川博敏さん。野球ファンの方なら誰でもご存知なのでしょうが、私にとってお顔と名前が一致するお出逢いではありませんでした。さすがに立派な体格の、何かスポーツでもやっておられるのに違いないとは察しましたが、今をときめくプロ野球選手だと聞いて驚きました。もちろんその輝かしい経歴をご自分の口から話されたわけではなく、周りの人から聞かされて初めて知ったのですが・・・。 池田にお住まいとのこと。お子さんの通っていらっしゃる幼稚園の集いに参加しておられるお姿にも、そのお人柄がしのばれるように、本当にいいお父さんでいらっしゃいます。 ドラフト一位、二位とか、言葉だけなら私も知っています。それがどんなにすごい事なのか、今度来られた時に直接本人の口から尋ねてみようと思っているのですが、返ってくる返事は今からもう十分に察しがつきます。 「たいしたことないです!そんなにびっくりしたように見ないでくださいよ」 どの世界にも傑出した人は頭の低い、人間味のあふれる方が多いものです。 考えてみれば当然のことですね。自分の才能を鼻にかけたり、名声に溺れたりするような人は、自己の傲慢な心に妨げられるでしょうから。謙虚さや感謝の気持ちが才能をのばす何よりの養分になるのですから。その昔、女優の加賀まり子さんも、理想の男性像は?・・・と聞かれて、こんな事をおっしゃっておられました。「謙虚で包容力のある男性が好き。今の成功を偉そうに、自分ひとりの力だと思いこんで自慢する人っているでしょ。芸能界に多いのよね」と。 北川選手を見ていると、心から声援させて頂きたくなります。それは彼の素敵なお人柄がそんな気持ちに、みんなを・・ファンを・・させるのでしょうネ。野球好きの方々の憧れだけでなく、私たちみんなから愛され、池田の住人にとって誇りとなるご活躍を!!頑張って下さい!! |
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**********プロフィール********** | ||||||||||||||||||||
北川 博敏(1972年5月27日生れ) 180cm、89kg。右投げ右打ち。A型。 兵庫県伊丹市出身。 伊丹市立荒牧中学校→大宮東高校→日大→プロ入り 1994年ドラフト2位で阪神入団→2001年近鉄→2005年オリックス→現在に至る 阪神時代は背番号9。打力のある捕手として嘱望され、入団した年のフレッシュオールスターでMVPを受賞。 2000年に近鉄へトレード。背番号は46に。 梨田昌孝監督に認められ、3月にプロ初本塁打を放つ。5月27日の29歳の誕生日に、生まれて初めてサヨナラ安打を放ち、初めてのお立ち台で涙を流した。この年のリーグ優勝に王手をかけた9月24日の西武戦では9回裏に中村紀洋内野手の逆転サヨナラ2ランにつながる代打本塁打を松坂大輔投手から放ち、9月26日のオリックス戦(大阪ドーム)で9回裏無死、大久保勝信投手から3点差をひっくり返すプロ野球史上6人目の代打逆転サヨナラ満塁ホームランを放ち、12年ぶり4度目のリーグ優勝を決め、「ミラクル男」と呼ばれるようになった。 2004年には本来の打撃を生かすため内野手に転向。 2005年楽天との分配ドラフトで、オリックス・バッファローズに所属することとなり、背番号も23に。 チームの主軸を努める一方、常に笑顔を絶やさず、ムードメーカーとしても期待されている。 |
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言葉!!ドラフトで1位、2位ってどれ位すごい事なのか知らない 私にとって、ゆっくりご本人に教えて頂こうと思っています。 |
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平川 好子 (2005年8月15日記) |
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47.『H17の夏』 |
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この夏も阪大水泳部の皆様の交流会を「頓珍館」でして頂き、スポーツマン達のさわやかな宴会で盛り上がりました。この年に一度の交流会には、全国からOBの方々がかけつけて来られ、かつての青春時代をもう一度・・・という熱い思いが伝わってきます。還暦を過ぎてロマンスグレーになっておられるOBと、今年阪大に入学したばかりの18歳の若者と。そんな未知の二人を阪大水泳部という縁が結びつけるおもしろさ、不思議さ。会が終わる頃には肩を組み、輪になって、一緒に寮歌を大合唱されるのですが、あの儀式は何度見ても、鳥肌が立つぐらい身が引き締まる思いです。 10年来当店をご利用頂いており、恭ちゃんなど、もうすっかり覚えてしまった寮歌を一緒に口ずさみながら、「嗚呼、黎明(れいめい)は近づけり〜起てよ我が友自由の子!・・・いいですねぇ」そのあと、こっそり私の耳元で、「侃諤(かんがく)の弁地をはらい・・・って一体何のことやの?ママ分かる?こんな難しい言葉、今の学生わかるんやろか?」 変わっていくのは言葉だけではありません。 宴会の様式もまたしかりなのです。今年は「時間限定、飲み放題」の宴会にするそうです、と恭ちゃんから聞かされたとき、私はショックを受けました。 「恭ちゃん、あなたそれをすんなりお受けしたの?」 「はい。今年は予算があまりないからと言われまして」 「でも恭ちゃん、ちょっと考えてみ」 今流行の飲み放題の宴会は気楽に違いない。若者たちは文字通り飲み放題で、幹事さんは足が出るのではないかとビクビクすることもなく、一定料金を払えば後は全てあなたまかせ。「15分前でございます。最後のオーダーをお願いします」とお伝えする。何という味気なさ。それでいいならいいのだし、こちらが口を挟むべきことではないのでしょうが、でも年に一度の交流会なのだ。中には遠方はるばるやって来られる方もいるだろう。列車の都合で遅れてきた方に「15分前でございます」などと無常な言葉がかけられるものだろうか。最後の打ち上げに全員大声で寮歌を歌って、さわやかに終わったこれまでの宴会が何か、いびつなものになっていくのではないだろうか・・・・・・。 私は恭ちゃんにも言い、思い切って幹事さんに電話して私の思いを伝えました。「よくわかりました。アドバイス頂いてる内容は僕の一存では判断しかねますので、先輩と相談してあとで電話します」さすがと思う一回生の若者の答えでした。幹事役は例年一回生がやることになっているようです。4時間後に若者の元気な答えが届きました。 「ありがとうございました。ゆっくりさせて頂きます。これまで通りの宴会でお願いします」 で、今年も無事、なごやかなフィナーレに、現役OB問わず、40名のスポーツマンたちの放つ若々しい寮歌の歌声が頓珍館を揺るがさんばかりに轟きました。 経営者として、時には時代に遂行していくことも、大切なこと。10年単位でお受けしてきたその宴会が形を変えるとき、女将としてお伝えしていかなければならないことはやっぱりあると思いました。 今年もまた阪大水泳部の夏の集いは無事終わりました。3時間以上の"ゆっくり宴会"で宴会費用もおつりが出て終わりました。本当に良かったと思いました。 |
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平川 好子 (2005年9月1日記) |
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48.『やっぱりカルチャーも・・・おもしろい!!』 |
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テーブルコーディネーターの資格試験も通り、一年に一度か二度どこかに挑戦する位で特に新たな事を学んでいませんでした。 そんな矢先・・・友人のステーキハウス華のオーナー吉住ゆかりさんがステキな手書きの一筆画をそっと書き添えた手紙を下さいました。親しくお付き合いをさせて頂いていますが、お互いにメールや電話が多くなっていました昨今。 久し振りの手書きの絵の入ったお手紙を下さいました。 その絵のステキさにびっくり致しました。お聞きしたら、一年位前からお稽古に行ってらっしゃったとの事です。結果私も昨日からあるホテルで一筆画を習い始めました・・・(笑) 驚きの変化がお稽古2日目の私に起こりました。朝から我が家で、手持ちの和紙の封筒、便箋、葉書を机いっぱいに並べて下のような絵を書いていました。昨日の二時間の勉強会でこんな絵を書こうと思うなんて、書けるようになるなんて・・・。先生との絵の違いは一目瞭然ですが、75歳の先生の趣のある絵に出逢えて良かったと、昨夜もずっと眺めさせて頂きました。 これからも、普通は誰もが面倒なこと、時間のかかることに、こんな趣のある世界があることをゆっくりと学んでいきたいと思いました。 |
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この絵を拝見していてこんな言葉を思い出しました。 「けがれなき月の光それは夜の闇を照らす神様の言葉」 皆様には「月」という黄色の文字がご覧頂けますか・・・? |
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平川 好子 (2005年9月15日記) |
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49.『我青春の一ページ・・・月の法善寺横丁』 |
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久しぶりに、道頓堀界隈を散策し、松竹座で歌舞伎を観てきました。松本幸四郎、市川染五郎親子演じるところの「夢の仲蔵千本桜」早変わりのからくりに魅了され、お芝居の世界に浸りきった至福の時間でした。 人はお芝居の世界に、どうしてこうも引き寄せられるのでしょう。人それぞれが生きてきた夢のような人生を、お芝居が凝縮された時間の中で演じてみせてくれるからかもしれません。舞台と我が身の人生を重ね合わせて、悲喜こもごもの感情につつまれるという、そんな魅力がお芝居にはあるのでしょう。 私もまたお店は舞台、舞台(お店)に立ったら役者と同じ、何があろうと人様(お客様)の前で舞台裏(プライバシー)を見せてはならない、というつもりでやってきたつもりです。 それにしても、道頓堀界隈ほど大阪独自の匂いを感じさせてくれる場所はありません。御堂筋沿いの松竹座の前で私の足が止まったとき、急に高まってくる胸のときめきを覚えました。まるで人手に渡ってしまった実家を何年ぶりかで訪ねてきた人のように。この松竹座こそその昔、18歳の私が毎日通った場所でしたから。当時ここは映画館でした。母に内緒で新春座という劇団に入った私は、お芝居のことしか頭になかった青春の一時期をここで、その場所で過ごしたのです。スクリーンのうら側に鉄でできた急な階段がありました。手すりもなく、足を踏み外せばただではすまない恐ろしい階段をそろそろ登って屋上に上がると、そこが劇団の稽古場でした。そこで来る日も来る日も発声練習や早口言葉、パントマイムの練習に明け暮れ、演劇史を教わり、舞台全般の勉強をたたきこまれました。先輩にはテレビドラマ「うず潮」で一躍スターになられた林美智子さんや高田次郎さん、荒木道子さん、二葉弘子さんがおられました。 私たち研究生はみんな明日のスターを夢み、輝かしい未来を信じて大声を張り上げて発声練習に励む毎日でした。声をからして家に帰ると、冷たい母の目が待っていました。結局、母の無言の抗議に負けてお芝居の世界に別れを告げた私ですが、あぁ、あの時の同期生はみんなどうなったことでしょう。40年の歳月が、未来の舞台俳優たちの身にどんなふうにふりかかったことでしょう。それこそがお芝居のようです。 あるとき、先輩の高田次郎さんがお店に来られて、私におっしゃいました。 「あんた、芝居やめてよかったな。女優なんかやってたら、こんな店持てんかったで」 そうかもしれません。でも・・・。母の反対を強引に押し切り、あのまま新劇の世界に踏みとどまり、役者稼業に命をかけて突き進んでいたら、今頃どんな世界が展けていたのだろう・・・とつい思ってみたりして・・・。 |
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大スクリーンの後ろの こわ〜〜〜い急な階段を昇り、 新劇の練習をしていた40年前。 |
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平川 好子 (2005年10月1日記) |
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51.『秋といえば、』 |
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秋といえば、学園祭や文化祭。皆様方の中にも、子供さんの学校の文化祭に出向いていかれ、遠い日の我青春時代に思いをはせた方もいらっしゃるのではないでしょうか。なんだこりゃ。今どきの若いもんは・・・と、淳朴素朴だった我々の文化祭とはあまりにも違う様子に口をとがらせ憤懣(ふんまん)の吐息をもらされたお父さんもいらっしゃるのでは?・・・だって今は子供がケイタイ電話を持つ時代、学校も学生も学園祭も我々の時と同じであってくれと願う方が無理なのでしょうが、私たちの世代が体験した学園祭には、他の娯楽が少なかった分だけ、それだけ思い入れや情熱がありましたよね。私にも忘れられない思い出があります。母校の梅花学園の二年生の文化祭の時でした。その年は、生徒たちの自立心を養おうとの試みなのか''独立文化祭 と銘うって行われた初の文化祭でした。文字通り、先生やPTAの手を借りずに運営にあたったわけです。私は自治会の役員だったので、文化祭では売店係の係長をおおせつかりました。たぶん"はっしん"(当時の私の愛称)やったら大丈夫や。商売人の娘やもんな・・・ということだったのでしょう。私も私で''よっしゃ。まかせとき と自信満々で引き受けたに違いません。ところがそれほど甘くはありませんでした。学園で売るパンやアイスクリームやその他いろいろな食べものの仕入れ先を探し、仕入値を交渉し、売価を決定しなければなりません。もちろん赤字が出てはならないのです。学園祭に来られる人数の予想を立て、売店に並ぶ品数が見劣りしないように、けれども絶対に売れ残りがないように・・・と知恵をふりしぼって当日を迎えました。すべり出しは上々でした。秋の頃で少し控えめに注文したアイスクリームはあっという間に完売。シュークリームなども売れ残りになる心配はありませんでした。ところが、一番売れると見こんで大量に仕入れた菓子パンが思いのほか売れません。だんだん日も暮れて、学園に人影も少なくなり始めているというのに、パンの入った大きなダンボール箱が五つ、手つかずのまま残っています。どうしよう、こんなにたくさん売り残すことはできない。何としても売ってしまわなければ。でもどうやって?・・・大げさに言えば、17歳の私が商売の恐ろしさを我が身で知った初めての体験でした。頭がまっ白になり、売り場でじっとしていられなくなった私は、両手に持てるだけのパンを持って売りに歩きました。そのときでした。売店に一人だけ残して、残りの仲間がいっせいに立ち上がってくれたのは。この危機的な状況を知った自治会の仲間も、次から次に加勢にかけつけてきてくれ、全員が売り子になって売り歩いた結果、ダンボールのパンはひとつ残らず売り切れてしまいました。その間30分。みんなの力がなしとげた奇跡に、私たちは肩をだきあって大泣きしました。・・・この思いは、"商売なめたらあかんで"という教訓を教えてくれたのと同時に、ひとりひとりの力は小さくても、それを合わせれば奇跡をも起こせる偉大な力になるのだという"一座建立"の精神が今の正弁丹吾グループの中に息づいております。 その当時の自治会の担当だった中井先生は、文化祭の翌朝の礼拝のとき、昨日の文化祭の売店係で起こったエピソードをマイクを通して全校生徒に話してくださいました。生徒が力を合わせてやることの大切さ、それによって得られる感動の素晴らしさetc・・・数分にわたるお話でした。高校の多くの思い出の中で小豆島のキャンプとともに、忘れられない青春の思い出です。 三年前に校長を定年退職された市川先生は、私が学園に入学した時にやって来られた大卒ほやほやの青年先生でした。今脳裏に浮かぶのは、若き日の情熱に溢れた先生方のお姿。 40年という時が流れて・・・ 私が梅花新聞に掲載して頂いた記事「先輩登場」は市川先生がご退職される寸前の出来事です。のちに2004年の梅花中学・高校の学校案内に下記のような取材をして頂きました。教え子の私に取りまして、このような多くのご縁を頂けた事に、心より感謝致しております。 |
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『BAIKA News』2002年5月27日〜先輩登場〜より | ||||||||||||||||||||
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2005年度・梅花中学校・梅花高等学校の学校案内より |
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平川 好子 (2005年11月1日記) |
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54.『先日』 |
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先日、豊能税務署の署長、副署長、個人課税1統括官、近畿税理士会豊能支部の副支部長をご来賓に迎えて、個人部会役員(各支部の支部長、副支部長)が出席のもと、平成17年度納税協会個人部会全体会議がありました。この豊能納税協会の会議に私も、池田一般支部副支部長として出席させて頂いて六年目に入ろうとしています。この会は納税意識を高める為につくられた組織のようですが、一番不得意な分野ですので、あっという間に月日が流れてしまいました。私にとりまして、ここ何年間は決められた事を必死で守ってきた・・・消費税もその一つでした。毎年毎年、予定納税という形で、何回かに分けて納付して参りました。5%からもっと引き上げられる、そんな時代が間もなく来るかも知れませんね。これからも必死で学び、働かないと決められた税金すら支払えないという、恐ろしい事になりかねない位、大変な不況のような気がしています。 話は変わりますが、三年前(2002年)の六月に執行されたひとつの法律は、私たち飲食店に携わる者にとって無関心ではすまされない、いや死活問題としていや応なく係わざるをえなくなってきました。それは言うまでもなく「道路交通法」です。 飲酒運転を厳しく罰するために作られた法律で、お酒を飲んで運転した場合、30万円の罰金。同乗者も同格30万円の罰金。五人連れなら総額150万円の罰金・・・というもの。 「飲んだら乗るな」のルールは当然守らなければならないことです。でも、きわめて少数の上層部の決定で成立したたったひとつの法律によって、社会全体の構図を根底から破壊させてしまっていいものだろうか、と思います。まるで戦時中の赤紙一枚が、ひとりの人間の命をあっけなく戦地の露と消したように。あの日以来、私の同業者の中にも、廃業に追い込まれた知人が何人もいます。路地裏の小さな一杯飲みや、少々遠いけどあそこの寿司は、焼肉は、焼き鳥は、天下一品と評判だったお店が、次から次へ、まるで神隠しにあったかのように町から姿を消しました。正弁丹吾の前身として一杯飲み屋から始めた義父が今の時代に生きていたら、間違いなく廃業に追い込まれたでしょう。仕事帰りにちょっと一杯というささやかな庶民の楽しみが、コップ一杯のビールもダメ!という厳しい法律によって奪われ、人々の情緒も町のうるおいも奪い去ってしまいました。我グループは、駅前という立地の店もあり、おかげさまで何とか営業できていますが、いぜん厳しい状況は続いています。今年も忘年会のシーズンを迎え、宴会の予約も増えてきておりますが、そのほとんどが市役所、市民病院、学校、保育所・・・といった公の職場のグループが多いのは何故なんだろう?・・・と不思議に思って市役所の知人に聞いてみると、「平川さん知らんの?市長がな、朝礼のときや"市長のとびあるき"の中で、言ったり、書いたりしてはんのや。『買い物は池田で!忘年会など宴会は池田で!地元池田のお店を大切に!』とな」私たちにとってはまさに死活問題に係わる有難いお言葉です。外食産業の危機はまだまだ続くでしょうが、その励ましに力を得て精いっぱい乗り越えていこうと、そんな思いをこめて本年最後のコラムを締めたいと思います。今年も読んで下さった皆様に心から感謝をこめて。 どうぞ、皆様よいお年をお迎え下さいませ。 来年もどうぞ、正弁丹吾グループをよろしくお願い申し上げます。 |
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平川 好子 (2005年12月15日記) |
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56.『KANSAI一週間』に載ります |
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講談社から出ている「KANSAI一週間」という雑誌は、年齢を問わず人気のある情報誌だそうです。その雑誌に当店が今度の1月16日号で紹介していただくことになり、うれしい名誉な取材を受けました。以前「女性セブン」に載せて頂いたときも、ずいぶん話題になりました。当店のような小規模の飲食店には宣伝費などに使えるお金は一切ありません。唯一の宣伝といえば、これも自家で刷ったチラシを従業員総出で街灯や駅前に立ち、「池田市役所東ウラの頓珍館です。池田駅前の麺料理ひら川です。よろしくお願い致します」と大声を上げてチラシを配ることです。だから新聞、雑誌テレビなどマスコミに取り上げて頂けるというのは、この上ない名誉なことであると同時に、数あるお店の中での取材は感謝以外の何ものでもありません。長時間かけての取材に、従業員一同、どんなに誇らしく、晴れやかな笑顔で一生懸命に取り組んでくれたことか。ひとりひとりに取ってこんなに大きな励ましはありません。雑誌の1ページを埋めるにも、プロデューサーをはじめ、カメラマンやライターのこんなご苦労があるのだと知ることによって、私たちは宣伝の面以外にも目に見えない大変な財産を頂きました。今回の取材では、シーズンが冬ということもあって「呉春鍋」を取り上げて頂きました。呉春鍋はこのコーナーでも以前に書かせていただきましたが、コンテストでグランプリに輝いた当店自慢のオリジナルの鍋料理です。 しかしそれは、2001年の食博での事。あれから4年も経っているのに、新メニューはいろいろありますが、頓珍館鍋、呉春鍋のような人気商品が後そんなに多くは誕生しておりません。日々変わりゆく時代にも変わらないおいしいもの、身体にやさしいものを、地域密着主義を重んじながら作っていこうとみんなで誓いあいました。 で、今回のささやかな感謝の気持ちとしてご予約のお客様(毎日先着20名様)に限り、呉春鍋、頓珍館鍋をどちらかお一人1000円引きにてサービスさせて頂くことに致しました。キーワードは「KANSAI一週間を見たよ」です。期間は1/17(火)〜1/28(土)まで。この機会にお楽しみ頂ければと思います。 |
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平川 好子 (2006年1月17日記) |
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58.『平成18年 ORA 新年名刺交換会』 |
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今年のORAの新年会の石井浩郎氏の講演は、今までとは一風変わった興味深いお話でした。壇上から飲食関係者ばかりの会場をぐるりと見渡してから、「今日は商売のお話は控えさせて頂きます」と開口一番こうおっしゃって私達をどっと笑わせた石井氏とは、あの元プロ野球のスター選手です。現在、東京の銀座に「IRODORI」と「HANADORI」という二軒のお店を経営していらっしゃるとか。野球音痴の私は、出来れば飲食業に転職されてからのお話を伺いたかったのですが、それでも石井氏のお話の中に私の知っている選手の名前なども出てきて、気がつくと彼の野球人生の中にすっかり引き込まれていました。 プロの世界で生き残るためのすさまじい競争。本人の努力が全ての、何ともすがすがしいスポーツの世界。そしてやはりスポーツの世界でもその人の未来を左右する人と人との出逢い。中でも感銘深かったのは、仰木監督、東尾監督のお話でした。監督が野茂投手やイチロー選手の個性を変える事なく、超一流に育て上げたその指導力は本当に素晴らしかったと。どんな天才でもスランプはあり、結果が出ずに落ち込んでいる選手の肩をポンと叩いて、新たな勇気を奮い立たせてあげる、その細やかな気配りで僕たち選手がどんなに励まされたことか・・・。世の中は全て縁で成り立っており、いい指導者にめぐり合えるのも縁。この縁を自分に引き寄せるのも、結局はその人自身の日々たゆまない努力と精進。どんな世界に生きてもこれは変わらない人生の法則ではありますが、コネや金の通用しないスポーツの世界のお話を聞くと、そのことが単純明解に納得でき、うむを言わせぬ説得力をもって迫ってきます。 石井浩朗氏は最後に、 「この野球人生で学んだ精神を、これからは飲食業界に活かしていきたい。命がけで頑張りたい。絶対に勝ってみせます」と力強い言葉で講演を締めくくられましたが、何とも手ごわい競争相手がまた一人現れたようです(笑) でも本当にそう。命をかけてやらないと負けてしまいますね。どんな仕事も!! 石井浩朗氏のプロフィール 1964年、秋田生まれ。秋田高校、早稲田大学、プリンスホテルを 経て、1989年ドラフト3位で近鉄バッファローズに入団。1年目は 肺炎と風疹のため出遅れたが、22本塁打を記録。 入団から5年連続して20本塁打以上を記録。4番打者として362 試合連続試合出場のプロ野球記録を樹立。1994年には パ・リーグ打点王を獲得。 その後、1997年に東京読売巨人軍に移籍。4番バッターとして 勝負強さを発揮。 2000年千葉ロッテマリーンズ、2002年横浜ベイスターズに移籍。 同年シリーズ終了後引退。 2003年7月、銀座7丁目に和食店「IRODORI」を開店する。 現在2店舗経営。株式会社H・Iグループの代表取締役。 |
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平川 好子 (2006年2月15日記) |
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61.『韓国旅行で学んだ事』 |
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年々歳々花相似たり。――今年も桜の蕾がふくらんできました。 どんなに人間の世界が変わろうと、自然は悠久の昔から春になると桜の花を咲かせてくれます。 心を空にして桜の花を眺めるとき、私たちはいつしか万葉人の目になっている自分に気づき、鑑賞ではなく、愛でる心情を取り戻しているのではないでしょうか。 そこには四季のある美しい日本の姿が映っています。 それ故にこそ万葉集が今も美しく、そこで愛でられた桜の花ほど、しみじみ日本を感じさせてくれる花はありません。 先日、急用で韓国に行きましたが、このときも"他国の地で我祖国を想う"心情に打たれました。韓国在住の友人(日本人)に誘われて本場の料理を食べさせてくれるお店を回った翌日、ちょっとしたパーティを催されました。彼女のご主人はオーストラリア人で、私の息子がかの地に留学していた時に、随分お世話になった方です。お仕事はオーストラリアの領事でお顔も広く、一声かけると韓国在住の外国人がいつも20から30人ぐらい集まり、国際交流の場になるのだそうです。個人的な家庭パーティといっても、お国柄によって好みも違う30人近くもの人達を一度に招くのは大変な事。これも領事のお仕事のひとつではあるのでしょうが、いつでも"おもてなし"できるよう用意万端整っている様子には心底おどろきました。 この日は"日本デー"らしく、お寿司のおいなりさん(朝からシャリを合わせて彼女の指示通り、あげの中にご飯をつめているメイドさんを見て、またビックリしました)や軽いスナックを用意して、セレモニーのモデルさんの着付けを手伝いながら、彼女が「日本の女性がいちばん美しく見えるのは、何と言っても着物姿ですからね」と言い、色物と白無垢、合わせて二枚の花嫁内掛けをどの国へも持っていくと聞いてびっくりしたものです。 友人の着物に対する愛情を通して、彼女が日本の女性のそれを慈しんでいるかが分かり、心を打たれました。日本にいる私たちはどうでしょうか。外国人を家に招いたとき、どれだけ"日本"を表現できるでしょう。あるいは自分の町を案内して神社仏閣の由来や日本建築の美しさをしっかりお伝えすることができるでしょうか。世界中の名所旧跡を尋ねまわって、見聞を広めた人が国際人ではないような気がします。自家製の漬物を恐る恐る口にして、外国人が「ワンダフル!!」と歓声を上げたときにこそ、私たちの本当の意味での国際交流が始まるのです。・・・・・・そんなことを考えさせられた韓国の旅から帰国すると、日本は桜の季節を迎えようとしています。もうそこまできている桜の開花を、今年はまた別のおもむきを持って眺められそうな、そんな気がしています。 |
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平川 好子 (2006年4月1日記) |
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62.『赤信号に見た・・・やさしさ』 |
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池田駅前の正弁丹吾ビル(頓珍館駅前店・麺料理ひら川)を出て車道に沿って左に数歩行くと信号機のある横断歩道に出ます。池田駅に行くにはこの歩道を渡らなければなりません。ある日のこと、新幹線の時刻に間に合うかどうか危うくなったお客様をお見送りしていたときのことでした。歩行者用の信号の青の点滅が終わって赤になったとき、私は走ってきた車に手でストップをかけ、お客様が無事に向こう側に渡りつくのを見守っていました。無謀で明らかな違反行為に、私は怒声をあびるかクラクションの猛抗議を受けて当然でした。ところが何一つそんな行為はなかったのです。運転手は四十代くらいの男の方でしたが、何度も頭を下げて誤る私にニッコリ笑い顔を見せ、静かに走り去って行きました。ふと出くわした人の親切に心を暖められた私は、似たような光景がオーバーラップして脳裏に浮かんでいました。――そこはもっと大きな町のもっと大きな交差点です。いっせいに歩道を渡る通行人の中に、盲目の少女と盲導犬がいました。信号が青から黄色に変わり、人々の足並みは早まりました。そして赤になったとき、人並みは歩道から消え、少女と盲導犬だけが残されました。彼女と犬はまだ歩道の半分もきていませんでした。しかし二人はパニックに陥ることもなく、ゆっくりと歩道を渡ることが出来ました。車という車が停車したまま、心無いクラクションを鳴らすこともなく、二人が渡りきるのを見守っていたからです。――これは知人から聞いた話で、私が実際に目撃した光景ではありません。にもかかわらず、私はまるでその場にいたかのような印象を受け、セピア色の映像と同時に過去の場面に変わっていく映画のひとこまのように鮮やかに脳裏に焼きつきました。真昼の静寂の中、かたずをのんで見守る衆人環視の中を、ゆっくりと時間が流れていきます。少女の靴音と盲導犬の足音が響くばかり。コツコツ、ペタペタ、コツコツ、ペタペタ・・・・・・。はっきりと聞こえる命の鼓動に耳を傾ける人々の心の中で、それはオアシスの泉のように一滴一滴乾いた心を潤していきます。一秒一秒が聖なる時を刻み、聖なる空間と化した繁華街の交差点がそのとき、どうして殺伐とした砂漠であり続けることができたでしょう。――実は知人もこの光景を見たわけではなく、本を読んでとても感動したといって私に話してくれたのでした。何気ない日常の中で見受ける小さな出来事に目をとめ、慈しんで書きとめた人。そうして私がここでまた語りたくなった小さな光景。人が人を思いやる人間の優しさがこんなにも美しい真実のドラマを見せてくれることもあるのだと、そんなことお伝えしたくてお話しました。赤信号がとても長く感じられるとき、なかなか降りてこないエレベーターの前でイライラするとき、ちょっと耳を傾けてみて下さい。きっと少女と盲導犬の足音が聞こえてきますよ。 |
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平川 好子 (2006年4月15日記) |
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63.『美しき・・・家族愛』 |
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東京の友人が久しぶりに訪ねて下さいました。二人の娘さんと遺影となられた奥様を連れて。奥様の知人を訪ね、四国を回って来られたそうです。 「彼女は天使のような人でした」 みなさんそうおっしゃって下さいました。きっとご主人は行く先々でそうおっしゃったのでしょう。娘さんに抱えられている遺影に微笑みかけながら、今も私の目の前でそう言われました。二人の娘さんの口からもこんな言葉がもれました。 「世界一の母でした」 私はこれまで自分の妻に対して、自分の母親に対して、こんな手放しの賛美の言葉を聞いたことはありません。そしてそれが微塵の嫌味も衒いもなく、こんなにストレートに伝わってきたこともありません。ガンで亡くなられる前の奥様の様子など、しみじみ語られる思い出話に耳を傾けながら、私の目は奥様の笑顔の写真に向けられたままでした。 それは世界一幸せな女性でした。彼女を囲んでいるのは、死でさえも断ち切ることの出来ない絆で結ばれた、世界一幸せな聖家族でした。ご主人や娘さんたちにとって、奥様は今も生きていらっしゃるのです。私たちはお彼岸には、故人への感謝をこめて、お墓参りをしたり、日々家では「お茶と」をしてご先祖様に手を合わせます。また、お盆の日には迎え火をたいて、一年に一度先祖の霊をお迎えして故人のことを偲びます。 こんな風習も次第に忘れられ、お盆にはスーパーで売っている盆菓子をお供えする程度ですませています。そして肉親が死亡すれば、死亡通知の葉書を出すだけです。こんな形式だけで済ませてしいる私たちに何がなくなったのでしょう。 それは心かもしれません。そしてその時になって私たちがどんな行動を取るかは、それまでに故人とどんな風に接してきたかが、問われるのです。心は必ず形になって表れてしまいます。妻の遺影を持って家族で四国まで、ご縁深き方々を尋ね回ったというご主人の話は、心打つ感銘と同時に、私自身の日々の生き方に深い反省を感じずにはいられませんでした。 |
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平川 好子 (2006年5月1日記) |
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64.『桜咲く 夜の五月山』 |
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四月の半ば、従業員たちと五月山の桜を愛でながら、お花見の宴を楽しみました。今年は寒さが続いたせいか、五月山の桜はその夜が満開でした。ここは桜の名所で、毎年この時期になると花見客たちの場所取り合戦が繰り広げられます。しかし深夜ともなると、人影もなくなり、月光を浴びた桜の花の妖艶な美しさはまた格別です。こんな美と酒の饗宴を私たちは心行くまで堪能しました。日曜日も営業を始めて以来、みんなで夜桜見物にこれたのは何年ぶりのことだったでしょう。 明日・・・仕事終わってから「桜見に行こうや」の一言で、急遽おでんを作り、各店の従業員に伝達されて実現したにわか仕立ての宴会でした。夜風が寒くてぶるぶる震えながらも、私の心の中はぽかぽかでした。一言でみんながひとつにまとまるグループの一体感の温もりをしみじみ思って。子供の頃から私の心を慰めてくれた五月山。一人ぼっちの幼い頃、いつも涙をいっぱい浮かべながら過ごした想い出のスペース。公園のブランコに揺られながら、「♪笛にうかれて逆立ちすれば、山が見えますふるさとの。わたしゃみなしご・・・♪」歌を歌って悲しみを忘れた五月山。想い出のいっぱいつまった五月山に朝がきたとき、私は公園の中にほとんどゴミが落ちていないことに驚きました。春たけなわ、お花見の真っ只中の公園です。それなのに、と池田の住民のマナーのよさに少し誇らしくもなりました。と同時にふと思い出したことがあります。ずっと前に友人からこんな電話をもらったのです。「五月山って、よっちゃんとこやろ。"猫の手帖"(雑誌)に出てたよ。五月山公園の猫が何者かに殺される事件が続いて、動物虐待法違反で犯人を捜索中だって・・・」私はびっくりして、「五月山公園ってどこか他のとこやないの?」すると友人は、「池田の五月山って書いてあったよ」 間違いないようです。たしかにこの公園でそんな事件があったのでしょう。罪もない弱者への暴力ほど恥ずかしい、卑劣な行為はありません。インドのガンジーの話を思い出しました。「その国の文化水準をはかるバロメーターは、その国の動物がどんなふうに扱われているかを見ればわかる」と。 文化を創るのも人間であれば、文化を汚すのも人間です。真の文化とは、人間のみならず、その恩恵はすべての動物、すべての植物も浴さなければならないはずです。 その日の朝、猫の姿は見かけませんでしたが、五月山が猫たちにとっても住みよい場所であれかしと、桜の花にお願いして公園を後にしました。 |
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平川 好子 (2006年5月15日記) |
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67.『打打打団(ダダダダ〜ン)・天鼓を観て』 |
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おもしろい太鼓を観に行きませんか?と友人に誘われ、さっそく大阪の南港まで足を運んできました。広い工場の中に設置された小屋の周辺は、もうすごい熱狂に包まれて、和太鼓の音と団員たちの華麗なパフォーマンスにしばし酔いしれました。 団員たちは、皆いろんなアルバイトをしながらも、和太鼓の魅力に引き寄せられてまとまった集団なのだそうです。この集団を主催しておられるのが広島出身の伊瑳谷門取さん。 舞踊家にあこがれて江戸舞踊の門をたたいたのが40年前のこと。そのたこ部屋(修業)生活をしている時(20年前)である日、岡本太郎さんの言われた「芸術は爆発だ」との言葉を聞いて心底から感動。師匠に話した所、「そんな品の悪いこと言うもんじゃないよ。何が爆発だ・・・よ!」との返事に師匠のもとを辞去し、以来自分の求める芸術を目指しての放浪が始まる。能登の御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)に出会ったときに、日本にはこんなすごいものがあったのかと、芸術的覚醒を覚える。この太鼓にあわせて踊れないかと世界を行脚しながら模索すること数年。そうしてやっと見つけた自分の踊りというのが天地も轟く和太鼓の響きに合わせて踊る、空の・・水の・・土の・・匂いのする踊り。つまりマンモスの歩いた音もドンドンドン・・だったと。川で踊り、滝つぼで踊り、熊野の古道で踊り、変な奴が一日中踊ってると怪しまれ、警察につかまったこと数知れず・・・とのことです。 こんな芸暦をお持ちの方ですから、そのパフォーマンスの熱狂振りも容易にご想像されましょう。舞踊が芸術の一形態という枠を越えて、そこには一種の宗教的エクスタシー(忘我)を感じさせるものであると思いました。観る者を巻き込んでしまう凄まじいエネルギーは、文字通り「芸術は爆発だ」の実践的光景そのものでしょう。平安朝に生まれた踊りや念仏や、阿波踊りなどの盆踊りに通じる民衆の培ってきた伝統の血が、門取氏独自のパフォーマンスに脈々と受け継がれているのでしょう。 そこにこそ私が心から共感できたものがあったのかもしれません。自分の求めるものを模索しながら、世界中を見て歩いた末に、それは実は自分の足元にあったことに気づかれたのかも知れません。 ハワイのフラダンスでもスペインのフラメンコでもなく、それは日本舞踊だった。ピアノでもバイオリンでもなく、それは能登の御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)だった・・・と。 この道一筋に生涯をかけた人の持っているオーラは、それが芸人であれ宗教家の行であれ、見るものに深い感銘を与えずにはおかないようにも思います。このオーラを感じたいと思われる方は、是非9月8日東大阪市民会館で行われる、この和太鼓のコンサートに行ってみられてはいかがでしょうか。 パンフレットが当店にもございます。 当日には門取さんも踊られるということです。 |
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平川 好子 (2006年7月1日記) |
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68.『古着に学ぶ日本の美』 |
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梅雨明け前のむし暑さ。寝苦しい夜をどうお過ごしでしょうか。これから夏本番にかけて見た目にも涼んで頂きたいと、シーホースで"夏のゆかた祭り"を始めてもう15年になりました。つまりスタッフ全員、とっておきのゆかた姿でお客様のおもてなし・・・というわけです。 「外見よりも中味」とも言いますけれど、着る物の威力はあなどれません。例えば、とてもおとなしい男の方が、警察官の着る服を着用したとたんに、人柄が変わったように怖く見えるそうです・・・。 普段はジーンズやミニスカートの店の若い娘たちも、ゆかた姿に変わると同時に、しおらしい大和撫子にまるごと変身してしまいますから面白いですね。 つい先日に還暦を迎えた私は、去年あたりから"和がえり"を心がけてきました。着物もその一つですが、知れば知るほど着物の世界の奥深さに気づかされます。着物と帯、帯と帯締、帯締めと帯びあげ・・・などなどの決め事。あるいは着物とバッグ、着物とはき物・・・といった約束事の多さには、ほとほと驚かされますが、これらは言うまでもなく、着物文化における日本美の追求ですから、ひとつひとつ身につけていこうと頑張っています。これからゆっくりと我社の女性たちにもきちんと教えられるようになれたらと思います。そして秋になる頃には、お月見の宴で着物ショーでもすればおもしろいかも・・・なんて考えているところです。 |
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平川 好子 (2006年7月15日記) |
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69.『エコール・ド・パリ時代(パリ派)の寵児、藤田嗣治展を観て』 |
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京都国立近代美術館で藤田嗣治展を観てきました。今年は彼の生誕120年にあたるそうです。藤田嗣治といえば、その芸術よりも、彼の生き方のユニークさで世に知られた画家のひとりでしょう。いっさいの権威を嫌い、日本の形にとらわれた画風を嫌い、東京芸術学校を出ると、単身パリに行き、パリで名声を得、フランス人と結婚し、帰化し、生涯を終えた人でした。当時の芸術家にとっては、憧れの都であったに違いないパリで、自由奔放に生き、パリの寵児(ちょうじ)となって、華やかな社交生活に明け暮れた彼の一面は、確かに凡人の私たちには叶うはずのない世界で、それゆえに憧れもされ賛美もされるのでしょう。その頃の代表作と言われる裸婦像に見られる”乳白色の肌”の美しさは、思わず人の心を奪ってしまう美しい魅力にあふれていました。けれども、彼が中南米を旅し、そこに生きる原地人を描いた作品などを見ると、ただ彼が華やかなパリで美人画だけを描き続けた人とはとても思われません。そして私の足がある一枚の絵の前にきたとき、言いようのない感動で一歩も動けなくなってしまいました。それは何の変哲もない日本家屋を描いた作品でした。説明によると、東京の四ツ谷にあった彼の家で、丸い茶ぶ台には茶わんやはし、みそ汁に食べかけの焼き魚がのっていて、かたわらには囲炉裏(いろり)、鉄びん、そして絵の中にしっかりと着物姿の彼がいました・・・。絵の裏には彼が残したこんな言葉が書かれていました。「今さらに生まれ故郷の懐かしさとほほえみが頬にのぼってくる」パリのアトリエでひとり絵筆を持つ彼の暗い顔が浮かび、その強烈な孤独感を思って心がしびれたようになりました。禅の語録にこんな話があります。『大きな牛が格子(こうし)の張ってある狭い戸をくぐり抜けることができた。奇跡的な自由を得て喜んだ牛は、細いしっぽが格子にひっかかっているのを知らなかった』と。藤田嗣治もまた、狭い日本を思いきって出ることのできた幸運な芸術家のひとりだったのでしょう。そして芸術の都で才能の花を思う存分咲かせることに成功しました。けれども彼のしっぽは、捨てたはずの四ツ谷の家屋にひっかかったまま、生涯はなれることはなかったのかもしれません。いろんなしがらみからついに離れることのできない凡人の彼が、そんな自分にかなしげなほほえみを浮かべながら、ひたすらキャンバスに向かって描いたであろう一枚の絵に、私は美しい裸婦像以上の感銘を覚えました。彼が生きた時代には大きな戦争がありました。彼の作品にも「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」などの絵に、時代の暗い影が漂っています。あるいは彼が二度と日本に帰らなかったのは、戦争が一因になっていたのかもしれません。時代に翻弄(ほんろう)されたひとりの人間として藤田嗣治という芸術家を見たとき、彼の華やかな肩書きが美をますます付加するその作品の奥底から、ひとりの人間の苦悩のうめきが聞こえてくるかのようです。これこそが私たちに感動を与えてくれる源なのかもしれません。 |
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平川 好子 (2006年8月1日記) |
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